ドライアイ

 幼少期を振り返れば、泣き虫だったとみんなが口をそろえる。

 確かめるように、疑うように、占うように泣いていた。

 まわりの子どもはみんな泣いていたし、私だって泣けるのだという証を見せたかった。

 だけどそれはいつでも決定的に違っていたし、違いについては私も家族もわかっていた。わかったうえで、泣きかたを覚えることを止めはしなかった。

 私は涙を流さない。

 どんなに辛いことがあっても、どんなに感極まることがあっても、涙は一滴も流れない。

 感情と涙腺がつながっていない。

 涙の生産力が著しく低い。

 どこか他のところを流れている。

 様々な理由と根拠と想像が私の瞳に映り込み、消えていった。

 そういうふうに生まれついたことが全ての要因であって、治せないのなら、考えるだけ意味のないことだった。

 生きるうえでは不便もなく、むしろしたたかで理性的な人間に見られることで、楽に立ちまわれる場面も多かった。

 感情のない無機質で冷徹な人間、という評価には至らない。

 なぜならただ、涙がこぼれないだけだから。

 笑いもするし怒りもする。悔しがるし、悲しみもする。

 ただ、泣かない。

 泣いても、涙があふれない。

 人前で泣く人は、もともとそう多くはない。だからそもそも、涙が出ないことを知っている人は、ほとんどいなかった。

 そう、今までは。

 年を重ねるにつれて、私は瞳の渇きを感じるようになった。

 ドライアイと診断されて点眼薬を使っていたけれど、渇きは癒えることなく続くばかりで、陸に打ち上げられた魚の口みたいに、私はまばたきを繰り返す。

 そのうちにあることに気付く。

 私のまわりでは、誰も涙を流さなくなっていた。

 それはただの偶然や人付き合いの問題じゃなく、泣いている人の涙が、まるで私みたいに一滴も、こぼれ落ちることがなくなってしまったようだった。

 眼科医の、ドライアイという診断は正しかった。

 私は、まわりのみんなの涙を、渇かせてしまっていた。

 温暖化の影響で深海の温度があがり、熱が吸収されているという話をラジオで聴いた。

 深海には、世界の熱が貯めこまれている。

 その日、浅い眠りの中で夢を見た。

 街がどろどろとキャンドルみたいに溶け始めていて、溶け続ける街をどうにかして、溶かさないようにする装置が、だれかの夢の中で開発されている。

 私はそれを探すために、自分の夢と他人の夢を混線させる薬を飲む。

 街を溶かさないようにするために、夢を溶かして、混ぜる。

 夢同士が混ざりあうと、夢は硬くなり、気持ちも硬くなる。

 本当はもっと、やわらかいものが好きだったけれど。

 ふと我に返れば、夢。

 もしかして、と私は思う。

 渇かしているんじゃなくて、貯めこんでいるだけなのかも。

 みんなの涙を、いつか大事なときのためにしまい続けている、だけなのかも。

 大事なとき。

 流すべきときって、いつ?

 いい涙もわるい涙も、混じりあえばただの涙で。

 うれしい涙もかなしい涙も、混じりあえばただの涙。

 涙はなにもかなしくないし、うれしくないし、よくもないし、わるくもない。

 ただの涙。

 涙の貯水池に、私は浮かぶ。

 ぷかぷかと。ゆらゆらと。

 私はすこしも、ぬれていない。

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