台風の夜(短編小説/794字)​

 台風が接近している。明日の学校は臨時休校になったし、なかなか楽しい。楽しいけれど、外に出ようとすると母さんに怒られるので出られない。こんな時にテレビゲームなんかしていても面白くないし、勉強なんかもっとする気になれない。何かいい方法はないものだろうか。停電でもしてくれればいいのに。

 と、思っていたら本当に停電した。家中の電気が消えて、母さんが大騒ぎしている。その隙にぼくは外に出ようと思い、忍び足で玄関に向かった。

 傘立てに入っているお気に入りの真っ白い傘を掴んでドアを開けると、全身ずぶぬれのおじさんが立っていた。レインコートは着ているけれど、ほとんど役に立っていない様子だった。

 おじさんは僕が出てくるのを待っていたかのようににっこりと笑いかけ、名乗った。

「わたくし、鼻歌屋です」
「鼻歌屋?」
「鼻歌が必要な方に、鼻歌を唄ってさしあげるのが仕事でして」
「ぼく、必要そうに見えるかな」
「見えました。それはもう、魔王を倒すための勇者の剣並に必要そうでした」
「なに勇者の剣って」
「今時のお子さんはRPGをプレイなさらないでいらっしゃる……まあともあれ、唄わせていただきましょう。準備はよろしいですか?」
「何を準備したらいいの?」
「特に何も。では、まいります」

 そう言うとおじさんは、鼻歌を唄いだした。正直に言って、ひどい音痴だった。これだったらぼくが唄った方がまだましだと思えた。

 唄い終えると、おじさんは満足そうに微笑んだ。

「いかがでしたか」
「下手だった」
「でも不思議と心が洗われるというか、落ち着いた気分になられたでしょう」
「あんまり」
「…………ではこれで」

 おじさんはきびすを返すと、雨晒しの街に消えていった。寂しげな背中だった。

 ぼくはなんとなく興が削がれて、自分の部屋に戻る。

 暴風雨に吹かれる外の景色を窓から見つめて、鼻歌を唄った。曲名を聞いておけばよかったかな、と少し思った。

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