緑の瞳と白いお皿(短編小説/6729字)
耳鼻科と婦人科に通うことが人生の一部になっている私は、夏休みに海はおろかプールにも行けない。
耳栓すればプールくらいはいけるかなと思ったりもするけど、そんなにがんばって行きたいわけじゃないし、友達もインドア派ばかりだから野外系のイベントはほとんど起こらない。
水を飲むのは口だけでいい。鼻も耳も目もぐずぐずで、滞っている私の細胞。
バイト先の道すがら、いつも通る小さな橋の小さな川で、たくさんの書類が川面に浮いているのが見えた。誰が落としたのかわからない。
川は大雨でも降らない限り水位が低く、裸足で立ってもくるぶしまで浸かるか浸からないかというレベルだ。
なものだから、ごつごつとした岩と小石の間に挟まれて、ばらばらになった書類たちはそのほとんどが水面に貼りついたようにその場でとどまっている。
メガネをかけてじっと見ると、書式がしっかりしていて判子を押したような赤みもある。公文書みたいだ。
見た目大事そうなのにまったく拾われる気配も、掃除される気配もないそれを、私は何日もバイトの行き帰りに眺めていた。
落としてしまったのではなく、捨てたのだという可能性に思い当たったのは、五日目になって跡形もなく書類が消えていたのと、かわりに緑色のシャツを着た子供が川の中にたたずんでいたのを見つけたときだった。
書類の消失と子供の出現に、関係性はない。ないけれど私の中でそれはつながりを見せて、関係性の疑いを育ててしまう。
その疑いを育てきらないまま育児放棄して、子供を観察した。
頭に白いものが乗っている。お皿だ。帽子のようにかぶっているけれど、どう見てもお皿だ。
びっくりするほど白い。子供が身じろぎするたびに、西日が反射してきらきらと光る。
顔はよく見えないけど、たぶん男の子だ。ひざ上丈のデニムパンツから素足がのびて、水面に沈んでいる。
変な遊びをする子がいるなあ、と思いつつ、私はポケットティッシュを取り出して洟をかむ。夕飯はおそばにしようと決める。
ネギがないことに気づいたのは家についてからで、仕方ない買ってくるかとサンダルを履いて外に出たら、さっき川にいた子供がインターホンに手を伸ばしているところだった。
「どうしたの?」
近くで見ると、ますます変な子だった。日本以外の血が混じってそうな、白い素肌とグリーンの瞳。
「カッパなんだけど」
「うん?」
「カッパなんですけど、水ください」
言い直して、カッパ君は私を見た。まつげが長い。
罰ゲームでもやらされてるんだろうか、と一瞬考える。こういう遊びだとして、なにがおもしろいのか私にはさっぱりわからない。
追い返すのもかわいそうなので、水くらいならと私は家の中に引き返す。
カッパ君は当たり前のように付いてきて、中に入ってきた。
「そこで少し待っててね」
コップに水をなみなみ注いで持ってくると、カッパ君は上がり口に座り込んでいた。頭のお皿からはみ出ている髪の毛をぽりぽりと掻いている。
「はいお水」
「ありがとうございます」
意外と丁寧にお礼を言って、カッパ君はコップの水を頭にかける。
「ちょっと!」
止める間もなく、玄関は水浸しになった。
お気に入りの靴は箱にしまってあるから平気だったけれど、濡れてしまった靴のいくつかは防水なんかしていない。あわてて私はタオルを持ってくる。
これは少々、説教が必要かもしれないと思ったものの、どこの子かも知れないし、物騒な世の中だ。加害者にさせられるくらいなら深く関わらないほうがいい。
お帰りいただこう。
カッパ君にもタオルを貸してあげて、なんなら返さなくてもいいよと言っておく。
「あの」
「ん?」
「みえませんか」
「え」
「カッパに」
見えません。
宣言されてはじめて、趣旨がほんの少し理解できただけで、カッパらしいなあとは微塵も感じない。
無理やりひいき目に見てカッパ要素を取り出すと、頭のお皿と、緑のTシャツ。Tシャツにはそら豆の絵がプリントされている。
ともかくこの二つだけだ。甲羅もないし、水かきもついてないし、くちばしもない。
「コスプレとしては十三点ぐらいかな」
「こすぷれ?」
「いやそれはいいけど、もう暗くなるし早く帰ったほういいよ。家族も心配するから」
カッパ君はタオルを持ったまま返事をしない。
あ、これはめんどくさそうだ、と直感的に思った私は、近所の交番の位置を思い浮かべる。何年も住んでいる町だけど、交番のお世話になったことは一度もなかった。
「おうちは遠いの? ケータイとか持ってない?」
「うちには帰れなくて」
「まあそんなかっこじゃ帰りにくいとは思うけど……お皿は取ったほうがいいよ」
「これはカッパなので」
そうかそれがカッパなのか。
よくわからないこだわりがあるようなので、そっとしておくことにして、私はカッパ君を外に出るように促す。
「おねーさんはこれから買い物いかなきゃいけないの。おうちはどっち?」
カッパ君は川の方を指差す。
設定にこだわるなあ、と思ったものの、実際にそっちのほうに住んでいるかもしれないので、いちおう信じてみる。
「遠い?」
「わからない」
「じゃあとりあえず送ってくから、歩きながら教えてね」
近所の人に見られたらやだな、と考えたけど元々大して交流なんかしていない。変な噂のひとつやふたつ、流されたっていいじゃないか。
なんとなく強気になってみて、カッパ君を連れて歩き出す。
子供の足だし、電車やバスに乗ってきた風にも見えない。そう遠くはないだろうとめぼしをつけて、私はバッグに常備しているマスクとメガネをつける。
アレルギーと花粉対策に持っているものだけど、これで少しは人の目も気にならない。
二人合わせた怪しさはアップしたけど、一人だけ怪しいよりも二人まとめて怪しいほうが、説得力はあるものだ。何を説得しているのかはわからないけど。
「学校は、夏休み中?」
間を持たせるために聞いてみても、カッパ君はほとんど答えない。
学校なんて知りません、なぜならカッパだから、というスタンスを徹底しているのだとすれば、なかなか大した演技力だとは思う。
年齢的にはたぶん二桁いってないぐらいなのだけど、整った顔立ちなのでわかりづらい。イケメン顔はわりと早期からイケメン顔が完成されるので、子供っぽさが抜けるのも早いのだ。
「川でなにしてたの?」
唯一、その質問にだけカッパ君は反応を示した。
考え込むように空を見上げて、ゆらりと首を傾ける。
「流されて」
「流されて?」
どう見ても止まっていたけど。
状況に流されるがまま立ち尽くしていた、とか、そういう情緒的な意味ではなさそうだし、子供の言うことはよくわからない。
私は一人っ子で、親戚以外に年の離れた子と向き合う時間は少なかった。
親戚の子にしたって、接待気分でテレビゲームをしたり、一緒に何かを食べたりするくらいで、会話メインで交流を持ったことはない。
急に耳の奥が痒くなり、小指をさしこんでぐりぐりと捻る。本当に痒いのはもっと奥だった。掻いたら掻いたで余計に痒くなる。それでも、掻かずにはいられない。
「カッパなんだよね」
「はい」
「やっぱりあれなの、水場から離れたら危険?」
「皿が乾かなければだいじょうぶです」
設定に付き合ってあげる決意をすると、そこそこに会話が弾みだす。
「キュウリはよく食べる?」
「たべます、キューカンブァ」
なぜか英単語に直された。
カッパ巻きの話は避けたほうがいいだろうか、などと思っていると、カッパ君を目撃した橋が見えてきた。
横に並んで歩いていたカッパ君が速度をあげて、ぺたぺたと走り出す。
音の違和感を覚えて足元をみると、カッパ君の靴はびっしょり濡れていた。
川に入ってたんじゃしかたないかーと思いつつ、なんでさっき玄関で気付かなかったんだろうとも思う。
彼の目的地は明らかに川で、おうちではなさそうだった。
小走りで追いかけて、声をかける。
「なにしてるのー?」
カッパ君は橋の上から川を見下ろして、じっと何かを探している。
「魚でもいる?」
「ごめんなさい」
「え?」
「じつは、頼みたいことがあって」
急に謝られた意味と、私ってば疑問符ばっかり発しているなという考えが同時に飛来して、少し笑ってしまう。
カッパ君はこちらを見ていない。
「卵をさがしてるんです」
「卵」
反射的に浮かぶのは鶏卵で、すこし考えてから脳裏に浮かぶのもやっぱり鶏卵だったけど、カッパが卵。カッパで卵。
「カッパの卵?」
「はい」
あっさり頷かれて、私は沈黙する。
卵生なんだ、カッパって。
でも哺乳類だろうし……カモノハシに近いのかなあ、カッパって。
そこらの動物園にいる気がするけど、いないカモノハシ。
オーストラリアに行かないと見れないカモノハシ。
あんな顔して毒を持っているカモノハシ。
そう考えるとかなりの激レアモンスターだ。
カッパ君も同じぐらい激レアということになる。
運がいいのか、私。
「あの」
「……ん?」
「一緒にさがしてくれませんか」
「卵?」
「はい」
「いいけど……もう日が暮れちゃうよ」
「お願いします」
イケメン少年(お皿つき)に頭を下げられてまで、断れる都合はない。ということにする。
なにが大変って、川に降りれる場所を探すのが大変だった。
そんなとこで苦労するとは思わなかったし、でも実際、この川に降りて何かをしているのを見るのはカッパ君が初めてだったし、そのカッパ君はどうやって降りたのと聞いたらなんの躊躇もなく橋から飛び降りたのを見て、あ、少なくとも都会っ子じゃないわこの子、と思ったのだった。
盛大に水しぶきがあがって、カッパ君は身体を震わせている。その動きが猫っぽくておもしろい。
「私降りれないから、上からさがすね」
卵のサイズは手のひらに収まるくらいらしく、それくらいなら私の視力でも見分けられる。
川沿いに下流へ歩く。
でも卵って。
あのカッパ君が産んだの?
ちょっと無理があるんじゃないだろうか。
産んでるところ想像したくないし。
やっぱり親とかに連絡したほうがいいんだろうな。
ほんとに卵なのかもわからないし。
たぶん、何かを落としたのはほんとなんだろうけど。
手伝うふりをして帰る、というプランは不思議と思いつかなかった。私自身、楽しくなってきてしまった面がある。
今年は花火大会どうしようかなー、浴衣はきついし、着ても見せる人いないしなー、などと考えつつ、視線だけを川に投げていく。
ふと視界の端にピントを合わせると、白いものが浮かんでいた。
きれいに消え失せたと思っていた書類だ。半分近く溶けてどろどろになっているけれど、大きめの石に貼りついて止まっていた。
そしてそのすぐ近くに、まるいゴルフボールのようなものが浮いている。
カッパ君を呼ぼうとして、私は彼の名前も聞いていないことに気付く。
恥ずかしさに敗北した私はカッパ君ー! とか叫んだりはできず、けっこうな時間をロスして彼を見つけた。
すでにあたりは薄暗くなってきていて、カッパ君のグリーンの瞳がきらきらと輝いているのを、蛍でも見るような気持ちで私は眺める。
「ありがとうございます」
そう言った彼の表情がだんだんと曇っていく。
手に持っている卵には、完全に割れてこそいないものの、無数のひびが入っていた。
「ごめんね、早く見つけられなくて」
カッパ君は卵を抱き抱えるようにして、その場に座り込んでいる。
本当に卵だったし、大切なものでもあったみたいで、私はいたたまれなくなる。それはそれとしてマスクを外してティッシュを取り出し、洟をかむ。
生理的反応は空気を読まない。
どうでもいいことだけど、ドラマに出てくる人間は健康体か大病を患っているかのどっちかばっかりで、私のようなほどほどに生活を蝕む病気は、初めからなかったことにされる。大事なシーンでシリアスな会話をしているときに、急に耳が痒いとか綿棒取りだしたり、胃が痛いとか胃薬飲みだしたりとかは邪魔なだけだから、排斥されるのだ。どうでもいいことだけど。
おうちへ送るどころじゃなくなってしまったので、私とカッパ君はしょんぼりという言葉が非常に似合う風体でとぼとぼと歩き出す。
卵ってことは、命だもんなあ。
当たり前のそのことに思い至ると、ずんと頭が重くなる。すっかり私はカッパ君をカッパとして認めているのだった。
もはやカッパ君を家に上げることについても抵抗はなく、どうやって泣きやませたものかと考えながら帰宅した私はお湯を沸かす。
子供のすすり泣きは、ナイフのように胸に痛い。
とりあえずコップに水を注いで渡してみたものの、弱々しく拒否。
「……頭の皿、乾いたら死んじゃうんじゃないの?」
「死にますけど」
死んでもいいかな、などと口走るカッパ君に、いいかなじゃないよ、と返して、同時にお腹がきゅうと狭まるような感覚。
空腹感。
「おそば食べる? ネギないけど」
返事はなかったけれど勝手に二人分を茹でて用意すると、カッパ君は無言でずるずると食べてくれた。
ぽつぽつと話してくれたところによると、卵は友達が産んでくれたもので、カッパが卵を産むのは生涯に一度だけなのだという。
聞けば聞くほどどんよりする内容で、それでも生理的欲求には逆らえずにおそばを食べる。
ずるずる。
ひびは入りまくってるけど生きてるかもしれないよ、とか楽観的なことは言いにくく、かといって今日は遅いからもうおうちにお帰り、などと常識的なことを口にするにはもう遅い。
テレビでもつけようかなとリモコンに手を伸ばすと、カッパ君が急に声をあげる。
「そうだ」
「なに、どしたの」
「おれが卵を産んで、返せばいいんだ」
不可解な結論に達したカッパ君は、急激に生気を取り戻したかのように明るくなる。
いや、いいけど。
産めるなら、いいけど。
産むの? ここで?
「ここで?」
「ここで」
それって無精卵なんじゃないのとか、そもそもひび入っちゃった卵も無精卵だったのとか、君って実は男の子じゃないのとか、カッパって両生類的なあれなのとか、疑問がぷかぷか浮いてきたけれど、面倒くさいのでそのほとんどを力技で沈める。
産めるというのだから、産んでもらおう。
きっとそれはカッパとしての動かざる証明に私の中ではなるのだろうけれど、カッパの貴重な産卵シーンを目撃したい気持ちはまったくない。
バスルームを貸してあげることにして、私はカッパ君の出産を間接的に手伝うことにする。
二時間ほどうんうん唸っていたカッパ君は、憔悴した顔でよろよろとバスルームから這い出てきた。
「だいじょうぶ?」
「はい……」
「産めた?」
「だめです」
そのあと結局、朝方までがんばっていたらしいけど、私は途中で布団に引きずり込まれて眠りの国に旅行していた。
ひびの入った卵を抱いたまま、カッパ君はバスルームで寝こけていた。産み方についてはあえて訊ねなかったけど、服は着ている。
私は鏡に向かって歯を磨きながら、ごく自然な手つきでカッパ君のお皿に触ってみる。
つるつるとした陶器の手触り。
乾ききってるただのお皿だった。
現実は情け容赦ない。
でも別にカッパ君のカッパ性を否定したりするつもりは、ない。
たぶん悪い子じゃないし。
ほんとに卵産むかもしれないし。
情にほだされて、的なあれで、もしくはストックホルム症候群をうすーくした雰囲気に近いニュアンスのあれで、いやそれはぜんぜん違うかな的なあれで、私はカッパ君を三日間、家においてしまう。
そしてカッパ君は無事、三日後に卵を産んで、川へ帰って行ったのだった。
めでたしめでたし。
三日間の詳細と、カッパ君が卵を産んでいる様子については、プライベートなことなので書き残すのはやめる。
ひとつだけ、頭のお皿について。
あれは本当にただのお皿で、接着剤で無理やりくっ付けていただけのものだった。
お皿をつけてないとカッパと信じてもらえないと考えてつけていた、とのこと。
カッパらしさなんて気にするなよ! とか言おうとして、結局は言えなかった。
何かになろうとして、名乗っちゃうと、たとえなりきれなくてもそこをスタートにするしか、なくなる。
だから私は、何かになるとか宣言したことがない。
でもそれは、大事なことなのかもしれない。
気のせいかもしれない。
ベランダにぶら下げた風鈴が、ちりんと鳴る。
テーブルには食べ残しのそうめんと、緑の瞳のあの子が残した白いお皿。(髪の毛の犠牲はやむをえなかった)
お盆には実家に帰って、妊婦になっちゃった! とか言ってみるかー、と、団扇をあおぎながら私は思う。
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