浮かぶ猫(短編小説/1565字)
飛行船が飛んでいるよと友人からメールがきたので、窓の外を見る。
狭い視界に飛行船は見当たらず、かわりに猫が飛んでいた。
へえ、猫って空飛ぶんだ、と思いつつ、窓を開けた。
開けた先に見えるのは背の高い植え込みで、道路とアパートの敷地を区切っている重要な境界線だ。窓から植え込みまではわずか一メートルほど。狭苦しいうえに見通しも悪いけれど、うちには他の窓はない。
視界からすぐに消えたので、植え込みから飛び降りる瞬間でも見たのだろうと高を括っていたが、実物として猫はそこにいた。悠々と空を泳いでいる。
泳いでいるといっても、四肢はだらりと重力に従って垂れ下がっているだけで何の動作もしていないし、感情表現に使われるはずの長い尻尾すら、ふらふらと、意思を感じさせない揺らぎを見せているだけだ。
飛ぶというよりは泳ぐ、泳ぐというよりは浮かんでいる、といった表現が正しいように思える。
「猫だ」
当たり前のことを僕は呟いた。雑種らしく、黒と茶色のまだら模様が少々グロテスクに見えなくもないが、顔立ちはそれなりに愛嬌がある。
視線を注いでいる存在に気付いたのか、猫はふわふわと身体の方向を転換させて僕の姿を射止めると、表情のない動物の顔のまま、口を開いた。
「しまった見られた」
緊張感の欠片もない声色だった。
空を飛ぶうえに日本語を話すとは、すでに猫としての領分を越えているように思える。本当にこいつは猫なのだろうか。
「おまえ。今、本当に俺が猫なのかどうか疑っただろう」
「…………」
心まで読むらしい。ますます猫らしさからは離れていく。
だいたい姿形が猫というだけで、こいつが猫という判断を下してしまっていいものなのか、悩みどころだ。
猫はひたと僕の顔を見据えると、芝居の下手な役者みたいな口調になった。
「俺は正真正銘、猫だ」
「そうかなあ」
「そうだ」
「猫っていうか……猫もどき?」
どうせ筒抜けなのだから気兼ねなく思ったまま評すると、猫は気分を害したようだった。
「なんだと? 俺が猫もどきだって? 本気で言っているのか?」
「本気も何も、考えてること分かんじゃん」
「いいだろう。じゃあ、おまえがもどいてみろ」
「は?」
「もどいてみろ。いいから俺をもどいてみろよ!」
「いやわけわからんし」
「それができんのなら俺は猫だ。れっきとした猫だ」
「まぁいいけど」
熱弁をふるってまで主張したい事でもないので、僕は猫が猫であることを認めた。
訊いてみたいことは山ほどあったが、時間がかかるし人目も気になる。僕は猫に、部屋に入らないかと提案した。猫は意外とあっさり快諾してくれた。
ミカンはあったがコタツはない。惜しいなと思いながら冷蔵庫にあったカツオブシを勧めると、猫はやんわりと拒絶の意を示した。牛乳をさしだしても、それも要らないと言われる。やっぱり猫らしくない。
「おまえさ、なんで浮いてんの?」
「浮きたいからだ」
「そうかぁ」
浮きたいんじゃしょうがないな、と僕は納得する。僕としても浮くなとは思わないし、むしろ浮いていて欲しい。
次の質問。
「おまえさ、飼い主とか居んの?」
「いない」
「じゃ野良猫か」
「違うな」
「違うの?」
「俺は猫なのでな」
なんだかよく分からない。
その後も僕は、猫に訊きたいことを質問し続け、その度に猫は、間を置かずに即答してくれた。理解できない返事が多く、必ずしも疑問が解消されたわけではなかったものの、僕はなんとなく、猫が何者なのか分かってきた気がした。
もちろん、猫は猫だけど。
「なあ」
「なんだ?」
僕は、どこか気乗りしないものを感じながら、心の奥で抱き始めていた疑惑をぶつけてみる。
「おまえってさ、もしかして、もう死んでるんじゃないのか?」
「そうかもしれんな」
実になんでもない事のように答えると、猫はヒゲを前脚でピン、と弾いた。
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