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人間らしく生きる'e


タダなんて、なおいいじゃないか!

 これは、岡本太郎さんの芸術に対する考え方を端的に表した名言である。

 時は西暦1976年。言わずもがな、高度経済成長期の真っ最中である。「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」のフレーズで一躍話題となったキリン・シーグラムのウイスキー、ロバートブラウン2周年を記念して、CMと共にロックグラスのノベルティが制作された。

 酒飲みだとビールの6缶パックなどに、おまけが付いてくることがあるのは見るが、芸術作品は見たことがない。それもウイスキーを一本購入すると、グラスが1つ付いてきたのだから、平成不況の最中に生まれ、失われた20年、30年と生まれてから日本経済が良かった時を知らない身としては信じられないほどの椀飯振る舞いである。

 しかし、他の芸術家がこれを快く思わなかった。ウイスキーのグラスとはいえ、立派な芸術作品である。それをおまけで出すなんて…。といった具合だ。芸術の崇高さが失われてしまうと言わんばかりの言葉に対して、太郎さんは表題にある「タダなんて、なおいいじゃないか!」と答えた。

 太郎さんの本を読むと、子どもは無我夢中に個性的な絵を描く。生まれながらにしてみんな天才で、みんな芸術家。それなのに、大人になると芸術を生業にする人を除き、自ら創作をしなくなる。そんな現代を危惧しているように感じることが多々ある。

 自分にはセンスがない、上手くない、きれいではないと、他人からの評価を恐れるが故に、やらないための尤もらしい理由を付け、挑戦しなくなるのである。そもそも子どもはそんなことを考えて創作していない。

 「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」の名言からも、周囲から良い評価を貰える作品のみを芸術と捉えがちな現代人に警鐘を鳴らしているように感じる。

芸術をもっと身近に

 なぜ大人になると芸術から離れてしまうのか。恐らく、心の成長に伴って、芸術へのギャップが生まれているのである。芸術というものは、お高くとまっていて、造詣が深い高貴な人たちが、美術館でお金を払って鑑賞する余暇であり、創作なんて以ての外。そうして、多くの現代人が芸術とは無縁の生活を送っている。

 太郎さんは、芸術はその辺の石ころみたいに、もっと身近な存在だと伝えるために、自らの作品をお金に換えないことを生涯に渡り徹底していた。パブリックアートの依頼は喜んで受けていたため、全国の至る所に岡本太郎作品が点在している。

 中でも1970年の大阪万博限りで取り壊す予定だった「太陽の塔」は代表作で、高さ70メートルにも及ぶ巨大な構造物から、万博記念公園の敷地外からでも圧倒的な存在感を放っている。

 都内なら、数寄屋橋公園にある「若い時計台」や、結果としてパブリックアートとなった、渋谷駅の連絡通路にある長さ30メートルにも及ぶ巨大壁画「明日の神話」は超大作にも関わらず、ディスプレイで保護されることなく、渋谷駅に鎮座している。

 例え公共の場に野ざらしで展示した結果、自分の作品が劣化したり、壊されるリスクを負ってでも、芸術の存在を身近に感じて貰えることの方が大切という信念を感じられる。

本職は人間

 太郎さんの活動領域は、絵画、陶芸、建築、執筆、ピアノ、スキー、晩年には爆発面白オジサンとして、お笑いタレントのような役割を担ったりと多岐に渡った。

 しかし、当の本人は職業などという枠組みに嵌め込む、現代の分業制が嫌いで本職は人間だと語っていたが、上記で列挙した役割の多さを鑑みれば言い得て妙だ。

 青山にあるアトリエには画材はもちろんのことだが、ピアノも置いてあるし、上のフロアに置かれているのは本棚と思われるから、書斎もある。庭に出れば立体作品の作業場である。

 絵を描いていて姿勢が辛くなったら、体を動かしながら創る立体作品、体が疲れたら執筆、頭が疲れたらピアノ、そして絵に戻る。そんな最も人間らしく、分業制の枠に囚われない生活だったのではないかと想像してしまう。

 しかも、作品数の多い平面画を一切お金に換えることなく、パブリックアートの依頼、出版、講演で生計を立て、他人との衝突を恐れずに、やりたいことや主義主張を忖度することなく貫き通した姿は、現代人こそ見習うべきではないだろうか。

 AIやロボットの発達で、近い将来、人間の仕事が奪われることが危惧されている現代である。現状の社会制度ではベーシックインカムで殆どの人が働かなくても最低限暮らせるだけの土台が出来上がっておらず、世界情勢も不安定でこの先どうなるか、全くもって見通しが立たないことと相まって悲観的だ。

 それは、これまで工業化の歴史と共に、ヒトは職業という社会システムの枠組みに閉じ込められていたため、人間らしく生きることを忘れてしまっているからではないだろうか。

 職業という枠組みを失うことで、ベーシックインカム抜きでは生計が成り立たなくなる恐怖感から、将来を悲観しているのではないだろうか。

 目まぐるしく変化する時代だから、安泰だと思っていた地位が揺らぐ時が来るかも知れない。そんなAIやロボットに置き換えられる時に必要なのは、学歴でも職歴ではなく、自活するスキルと、アートな生き方を組み合わせた人間らしい生き方ではないだろうか。

 岡本太郎さんのような、講演や執筆依頼が来るほど著名でなくても、家庭菜園や釣り、狩猟で半自給自足。必要なお金は株式など金融資産の利子や配当だったり、ちょっとした労働で賄う形なら、誰にでも実現できそうだ。

 そうして、有り余る時間で創作をするが、信念を曲げないためにマネタイズせず、決して意向のあるスポンサーを付けずに、やりたいことをやる。そんな岡本哲学的な生き方が、見直される時期ではないだろうか。

[増補]本職と副職の境界が曖昧になる未来

 過日、野○総研系列の家計にまつわるアンケート調査の依頼ハガキが投函されていた。表向きは無作為とはいえ、ドロップアウト組の私が抽出されるのは皮肉が効いている。

 無論、簡単な調査ではなく、年齢や性別といった個人情報から、収入や支出、家電や自家用車は何を持っているかや、契約している携帯キャリア、サブスクなどの消費性向に関する設問、保有資産、資産運用歴や投資対象、運用年数など、答えるのが面倒な設問を含めてざっと100以上はあった。

 そのため、相応の報酬が予告されているため、タダ働きではないものの、時給換算すると割に合わないのが、この手のアンケートを取り組んで得た結論だった。そもそもドロップアウト組に時給換算の概念を持ち出すのがナンセンスな気もするが…

 元鉄道員の性もあって、最後まで書き終えた後に、最終チェックで抜け漏れがないかと、整合性が取れているかを確認したが、冷静に見返すと、どう考えても外れ値であろう人間のサンプルを、生活実態調査のデータに組み込んだところでノイズ以上でも以下でもなく、支払う報酬がもったいないとすら感じた。

 20代後半で職業欄は学生、通信制大学に在籍しているため嘘ではない。その割に、前年の収入として、およそ学生には似つかわしくない、ドロップアウト前後に得ていた(非課税)所得が100万円単位で記入されている。

 そうかと思えば保有資産額が日本円にして8桁を超えており、私は一切嘘をついていないにも関わらず、十中八九こんな20代大学生居る訳ねぇだろと、万が一神○川県警に職質されたら、虚言扱いで精神病院に移送される程度には、胡散臭いサンプルに仕上がった。

 人間らしく生きることを優先した結果、既存の社会システムの枠組みにピッタリ嵌まる本職という名のピースが存在しないどころか、一般的なプロファイルの項目では、個人の全貌を推し量ることが困難な存在と化した。

 ジブリ作品ではない方の「君たちはどう生きるか」の主人公である、コペル君の叔父さんみたいに、物知りで色々な知見を与えてくれるが、いつもフラフラしていて、何をやっているかよく分からない存在のように、人を職業でカテゴライズするとただの失業者と限界がある。

 しかし、現代は多様性が尊重されると同時に、VUCAと言われる程度に変化が激しく不安定な時代でもあり、政府が副業を推奨するなど、インカムのパラレル化によって、本職と副職の境界が曖昧になる未来まで見据えると、職業という枠組みそのものの根底が揺らぐ可能性も否定できない。

 だからこそ、枠組みそのものが無くなれば、〇〇をして生きる人みたいな表現が通用する未来になるかも知れず、それが実現すれば、側から見ると何をやっているかよく分からない人や、世間体のために職業という枠組みに嵌まり続けて疲弊している人たちが、より生きやすくなるような気がしてならない。


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