拝金主義の成れの果て'e
お金ばかり考える貧乏人と、意識しないお金持ち
一般的にお金持ちのことを守銭奴とか金の亡者などと、さも拝金主義者であるかのように揶揄する人は多い。しかし、実は真のお金持ちほどお金に執着していないし、日常生活でお金なんて意識していないのではないかと私は考える。なぜならお金があればあるほど、キャッシュフローを意識する必要がないからだ。
金融広報中央委員会の統計によると、20代が保有する金融資産の中央値が10万円にも満たない結果が出ていることからも、私の同世代の半数以上は預金口座に10万円も入っておらず、今月の生活を考えるだけで精一杯なのが実情である。
同僚の日常会話で、何日が給料日で、いついつにカードの引き落としがあるから、いくらまでは引き出しても大丈夫。みたいな内容を初めて耳にしたときは衝撃的だった。
私は仙人のような耐乏生活に慣れきっていた(と言うよりも高校時代から生活レベルを一切上げなかった)ことが幸いし、今までの人生経験でクレジットカードの引き落としに怯えるほど預金残高がない事態などなかった。
そのため、毎月カードを通して好きなものを買い、月末頃になると預金口座の数字が減る程度の感覚でしかなく、想像するにお金持ちの感覚もこちらに近いのではないだろうか。
しかし20代の半数以上が、恐らくお金を使うたびに預金口座の数字と睨めっこしている。キャッシュが不足する場合、キャッシングやカードローンに手を付けては、残高不足を免れるような自転車操業状態で、これでは金利や手数料を無駄に支払うと同時に、脳のリソースも無駄遣いしている。
実際に、行動経済学の世界で、貧困に直面するとIQがおよそ13ポイント低下し、長期目線で物事を考えられず、目先の利益に囚われることが明らかになっている。
そうして明日生きることが精一杯な貧乏人ほど、出来過ぎた話に乗って騙されたり、非合理的な行動を取ることで財を失い、お金持ちは長期目線で利益になるものに種を蒔き、複利を味方に利益を得て、より一層お金持ちになり、格差が開くのだろう。
お金があるから高級品を買う訳ではない
そもそも真のお金持ちほど、お金は何かと交換するための道具に過ぎないと、フラットな考え方をしており、お金を神格化しているのは貧乏な人の方ではないだろうか。世の中で本当に価値のあるものほど、大抵お金では買えない。それを一番理解しているのが、紛れもなくお金持ちだろう。
信頼できる人間関係。適切な食事・睡眠・運動の上で成り立つ心身の健康。虫歯のない自分の歯。旅行などの経験。読書などで知識や教養を深めることなどは、お金だけあっても買うことはできない。
迫害の歴史を持つユダヤ人が、聖典であるタルムードを通じて、たとえ全財産を奪われても、知識や経験だけは奪われないことを示唆していることからも、これが人間の真理だと思う。
そうは言っても、高級車、別荘、プライベートジェットなどの、お金で買える価値あるものもあると思いがちだが、これらはマーケティングによって価値があるように思い込まされているに過ぎない。
それにも関わらず、お金持ちがこれらを所有するのは、事業の経費として購入することで節税しているに過ぎない。同じお金が出ていくのなら、税金としてではなく、モノで残した方が良いと思うのは、ふるさと納税をやっている方であれば感覚的に理解できるだろう。
お金持ちからすれば高級品など、事業の利益を都合よく相殺できて、それでいてステータス性の高い、大きな買い物程度の認識なのだろう。
一流レストランや高級ホテル、ファーストクラスを利用するのも、高級感や上質さを味わうというよりも、ある程度の経済力を持ち合わせている人だけが立ち入れる、線引きされた空間が安心できるとか、成功者同士のコネクションを形成するための必要経費としての側面が強い。それらを表面だけ捉えて、可処分所得で買っている時点で、残念ながら成金である。
お金に命を賭ける価値はない
それに拝金主義は度が過ぎると、資産を失った際に絶望して自決しかねない。元鉄道員として、人身事故が心なしか月曜日に多発すると肌で感じている。
想像するに、嫌な仕事で稼いだ全財産を、一発逆転を狙って株の信用取引やフルレバレッジのFX、暗号資産に投機するも、ハイリスク故に金融市場の荒波に飲まれ、時には借金まで背負ってしまった状態で、仕事が目前に迫った週明けの出勤時に、生きている意味や存在価値が分からなくなり、発作的に身を投げてしまうのだろう。
これは極端な例だとしても、職を失ったり、お金がなくなることに対して、強い恐怖心を抱く人は多い。
しかし、日本には生活保護があるのだから、見栄やプライドを捨てて、社会保障制度の権利を行使すれば、健康で文化的な最低限度の生活が保証されていることは、日本国憲法の生存権に記載されており、社会の授業で習った通りだ。
それにも関わらず、ちょっとでも収入が減ると、現在の暮らしが維持できなくなる恐怖心を抱くなら、生活レベルを上げ過ぎて、身の丈に合ってない証拠だろう。漠然と裕福な暮らしに憧れるなら、一度、大量消費社会の刷り込みを疑ってみた方が良い。
お金はなくとも、近所で歩いたことのない道を散策するだけでも、新しい発見がある。携帯電話のカメラで散歩がてら情景を撮影すれば立派な趣味だ。ランニングコストも電気代程度と限りなくゼロに近い。
わざわざ遠出しなくても、近場の知らない場所に行けば、それなりの旅行気分を味わえるのは、コロナ禍が教えてくれたのだから、これを活用しない手はない。
図書館に行けば本を読んで知的好奇心を満たせる。自宅でドリップした珈琲を水筒に入れて、飲み物の持ち込みが許されている図書館で珈琲片手に本を読んだり、借りた本を散歩に持ち出せば、わざわざ喫茶店に立ち寄らなくても、居心地の良い空間で珈琲を飲みながら読書をすることができる。金額にして数十円で、お金は殆ど掛からない。
お金はあるに越したことはないが、何かと交換するための道具に過ぎないのだから、無いなら無いなりの生活を心掛ければ良いだけの話で、昨今の不安定な世界情勢は、今一度お金や経済との向き合い方を見直す良い機会なのかも知れない。
[増補]情に棹させば流される
今ではお金に困らない生活が営めるようになった私でも、10代の最後にお金で失敗した経験がある。
高卒でアルバイト先の電鉄会社にそのまま就く運びとなったが、バイト時代にお世話になった先輩から、お金を貸して欲しいと頼まれ、良かれと思って貸したことで、人間関係に亀裂が生じたことだ。
お金を貸すと人間関係が崩壊するプロセスを、身を以て経験したからこそ、同情して良かれと思ってお金を貸したら最後、その人とは昔のような親しい関係に戻ることはなく、大体が悲劇的な結末を迎えることを自戒の念を込めてここに記す。
そもそも、街中を歩けばサラ金、カードローンといった金貸しのプロが蔓延る世の中で、なぜ親しい間柄の人間に頼るのだろうか。想像力を駆使すれば、個人に相談しに来た時点で、金貸しのプロである金融機関が、債務不履行のリスクが高いと判断して貸し渋っている可能性が高い。
プロが貸し渋るような属性の場合、借金できる手段はキャッシング、リボ払い、消費者金融と、利率がどんどん高くなる。貸し倒れのリスクを鑑みれば、利率を高く設定しないと商売が成り立たないからである。
もし、その枠を全て使い果たして首が回らなくなった状態で、あなたの元に無利子に近い条件で借金しに来た場合、そのお金が期日通りに満額を揃えて返ってくる確率は、どれ程のものだろうか。
たとえ与えるつもりで貸したとしても十中八九、返済が滞ることで両者の間に痼りが生じて、これまでの親しい間柄が一瞬にして、債権者と債務者の関係に様変わりする。
債務者からすれば、ワンチャン債権者が居なくなれば借金がチャラになる構造上、良かれと思って貸した筈なのに、いつの間にか疎遠になったり、険悪な関係と化して、むしろ消えて貰ったほうが良いとすら思われる展開となる。
これらを鑑みると、どう転んでも債権者の報われなさが半端なく、私の場合、最終的に金融資本は毀損しなかったものの、その代償として人間関係という名の社会資本が毀損した。同情して気遣ったことにより足元を掬われた格好だ。
お金は決して万能ではなく、時として人間を歪めてしまう魔力すら内包している。10代の最後にその恐ろしさをまざまざと体感したからこそ、お金を適切に扱えるようになりたいと思い、愚直に学び続けた結果、今がある。
そう考えると、今の私を形成するのに必要な経験だったとも捉えられるが、決してお勧めはしない。読者の皆さんは経験に学ぶ愚者ではなく、是非とも歴史に学ぶ賢者として、他山の石にでもして頂けると著述者冥利に尽きる。