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社会に飼われるヒト。

同僚との会話で気付いた人間の真理。

 数年前、私が所属する鉄道会社は長いものに巻かれて、ホームドアが導入される運びとなった。社内報でこれを知った同僚が、当社線の民度が低いと評判が悪いことに対する自虐と思われるが、「まるで動物園のようだ」と呟いた。

 確かに人間も動物であることに異論はなく、ある種、動物が利用する設備に柵を設けるのだから言い得て妙だ。その場は笑ったものの、冷静に考えて、ヒトの社会構造そのものが動物園なのではないかと思うようになった。

 この漠然とした思想を端的かつ過激に表したのが「社畜」だろう。社員+家畜の造語で、企業に飼い殺しにされている姿を自嘲するのにしばしば用いられている。

 動物園はそれをもう少し深堀りしてソフトな言い回しにした具合である。ヒトも生物である以上、生存本能たるものが存在するはずだが、科学文明が発達したことにより、先進国を中心にそれが脅かされる事態とは殆ど無縁となった。

 ペットを飼い慣らすうちに野生の本能を失っていくように、我々人類も、社会に飼い慣らされていくうちに、生物としての本能を失っているのではないかと私は考える。

 つまり、ヒトとして生きるには、社会に束縛されない、独立した、自由でもあるが責任も伴うような、野性的な生き方が大切なのではないだろうか。

 我々サラリーマンの大多数が気付いていないだけで、社会構造という名の動物園の中に生存していて、少しでも快適な檻の中で過ごすべく、良い成績を取ったり、良い大学を出たり、大企業や公務員に就いては、上司に気に入られようと媚びて、生き残ろうと必死になっている。滑稽ではないだろうか。

 本来必要なのは、誰にも依存せず、独立して生きられる野性的な生存力ではないだろうか。

ヒトとして生きていない現代人。

 狩猟採集社会でも、農耕社会でも構わないが、貨幣経済が発達する前の人間社会はモノや労働力を交換する、村社会特有の相互扶助によって成り立っていたとされているのが通説である。

 この当時のヒトや、現代でもなお貨幣経済を介さずに生活している人々は、着るもの、食べもの、住むところを、文明人から見たら非効率に見えるものの、すべてを自分たちの所属するコミュニティ内で調達しており、その活動によって人間の三大欲求である食事、睡眠、運動を満たしている。

 しかし、社会に飼い慣らされている我々現代人はどうだろうか。着るもの、食べもの、住むところを貨幣経済を介して調達するために、雇用主やクライアントに労働力を提供し、その対価として賃金を得ている。

 多くの会社員(特にホワイトカラー)は衣食住を調達するために、不健康なファストフードやインスタント食品を短時間で流し込み、寝る間も惜しんでディスプレイとにらめっこ。

 日が出ている時間帯も、日没後も照明や空調によって一定の環境が整備されている室内に篭もり、おとなしく座って頭だけを動かす日々を繰り返して、つかの間の休息に、日頃満たせていない三大欲求を満たそうと寝溜めしてみたり、外食や娯楽、ジムやヨガに勤しんでは、また週5日働くことを繰り返す。

 これで本当にヒトとして生きている状態と言えるのだろうか。私が尊敬する岡本太郎さんの著書には、以下のように記されている。

”全人間として生きないで、職業だけにとじこめられてしまうと、結局は社会システムの部品になってしまう。”

自分の中に毒を持て|岡本太郎

 社畜とか、動物園よりも辛辣な「部品」と表現しており、生涯を通して決して部品として生きなかった太郎さんらしい表現だとつくづく思う。

解脱が現実的な落とし所。

 サラリーマンが社畜、檻の中にいる動物、社会システムの部品と言われたところで、生きていくためにはお金が必要で、お金を稼ぐ手段がなければ何も出来ないと都会人ほど考えがちである。

 だからこそ、FIREがムーブメントとなり、年間生活費用の25倍の資産を貯めて、年率4%ずつ取り崩しても元本が減らないように運用することで、自由を手に入れようと、資本主義社会の真理に気付いた方から躍起になって蓄財しているのが現状である。

 金融資産所得は、経済的に独立する手段のひとつではあるし、私もその道を目指している節はある。しかし、FIREの難点はサラリーマンが利子や配当で食べていけるだけの金融資産を貯めるまでに時間を要する点である。

 この点には、資本主義や大量生産大量消費社会の刷り込みが見え隠れしている。我々はお金を使うことで便利に生きることが当たり前になっていて、それが脅かされることを嫌う。

 しかし、当たり前だと思っている常識を疑い、時に不便さを受け入れることで、お金を殆ど使わずに生活することは不可能ではない。貨幣が発達する前の生き方は、我々の祖先が通った道なのだから、決して難しくない筈である。

 地方の限界集落や、住宅が過剰供給となっている地域に移り住めば、居住コストは限りなくゼロに出来るし、ある程度の利便性を求めても月額2万円以下で賃貸契約できる地域が多数存在する。

 地方部なら土地は余っているだろうから、家庭菜園などで野菜果物を自給自足すれば、食費も米代に毛が生えた程度まで圧縮可能だ。洋服だってシーズンごとに使い捨てずに、自分で補修やリメイクが出来れば今ある服だけで10年以上持つかも知れない。散髪だってセルフカットを拾得すればタダ同然だ。

 そうやって、生きるのに最低限必要なインフラ代(住居、水道光熱、通信)を除いた出費は、不便かも知れないが創意工夫することで、殆どお金を掛けずに生活することが出来るし、実践している先人も少数ながら実在している。

 まるで仙人みたいな、解脱した生き方に映るかも知れないが、生存するために必要なコストが小さければ小さいほど、労働によって賃金を得るにしても、金融資産所得で得るにも、少ないリソースで済むのは不変の法則である

 過去に手に入れた社会的地位や名誉、世間体などに固執し、それに振り回されていつの間にか身動きが取れなくなって社会的に詰む位なら、最初から煩悩を捨て解脱し、原始的に生きるのが自由への近道かも知れない。


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