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中立を保つことの難しさ


犯人探しではなく、対策を考えるべき

 遠州鉄道の路線バスで残高不足となった児童に対する不適切接客が、ネット上で賛否両論となり、やれ運転手が悪いだの、残高不足にさせた親の責任だのと、誰が悪いのか議論が沸騰している。

 一応、かつて鉄道業界に身を置いていた者としては、マスメディアの見出しが往々にして、運転手のせいで、子どもが炎天下の中、2時間歩かされた的な印象を抱く内容になっていることから、運転手が悪い的な論調に持っていきたい悪意を感じずにはいられない。

まず、小学校低学年の児童は、7/22に路線バスをA-B区間と、B-C区間で乗り継ぐ形で帰宅する予定で、B-C区間の定期券を持っていた。

 問題はA-B区間のBで下車する際に、残高が80円足りず、その際の運転手の接客が不適切だった以上でも以下でもなく、残高不足を指摘されただけで、Bのバス停で降りれていたことが、讀賣の記事では読み取れる。

 その後、B-C区間の定期券を持っていたにも関わらず、それを使わずに2時間かけて歩いて帰ったのは児童側の問題で、運転手に非はないため、マスメディアが論点をすり替えた影響で、犯人探し論争が勃発しているのだと思う。

 そもそも論、私も電車を運転していた立場だった経験から記すと、下車した後の乗客ひとりひとりの行動なんて知らんがな。むしろ、自分たちが交通機関から下車した後の動向を、乗務員が事細かに把握していたら、それはそれでストーカーでは?と思うが、いかがだろうか。

 大事なのは犯人探しではなく、何が原因で、児童が猛暑の中、2時間歩くに至ってしまったのか。今後、似たようなことを繰り返さないために、会社や社会全体でどんな対策ができるのかを考えることではないだろうか。

社会が利便性を求めた結果、弱者が被害を被った可能性も

 運転手の接客が不適切だったのは確かだが、では、それが児童が猛暑の中、2時間歩く事態に繋がった直接的原因となったのかは、報じられていない。

 無論、児童がバスの運転手という大人に注意されたことで、バス怖いとトラウマになり、怖いバスに乗るくらいなら、炎天下の中、歩いたほうがマシ的な発想に至った可能性もゼロではないが、それは児童が自分の意思で選んでいる以上、マスメディアがあたかも被害者感を出すのは筋違いだろう。

 憶測の域を出ないが、ICカードに定期券情報を格納するようになってしまったことで、小学校低学年の児童からすれば、読み取り部にタッチすれば、バスに乗れる程度の認識しかなかったのではないか。

 それがある日、残高不足が引き金となって、運転手から注意されたことで、このICカードは使えないものだと思い込み、炎天下の中、2時間歩いてしまった可能性も十分考えられる。

 アナログを礼賛する意図はないが、私の少年時代、ICカードというものが無かったため、定期券を見せて乗るバスと、整理券+現金で乗るバスとで、取るべきアクションが異なっていた。

 しかし、ICカードでは先述した通り、残高が差し引かれない定期区間内であっても、残高が差し引かれる定期区間外であっても、アクションは同じ1秒タッチであり、残高がなくても乗れる定期券区間を認識できる要素がない上、カード単体に残高は記載されない。

 社会が利便性を求めた結果、それが仇となり弱者が被害を被る事態に発展した可能性を考えると、典型的なデジタル・ディバイドや情報弱者の潜在リスクが表面化した一件とも捉えられる。

子どもも大人と同じ個別の人格を持つ人間

 確かに日本は交通機関(特に鉄道)の運賃・料金体系が複雑怪奇で、旅行業務取扱管理者の試験で、JRの運賃・料金計算があるくらいだ。

 みどりの窓口に置いてある、いざという時に鈍器にもなる時刻表の最後の方を捲ると事細かに記されているが、そもそも”運賃”が移動の対価で、”料金”は速達性や快適さなどのサービスの対価と分けられている。

 運賃表だけでもA表、B表、C表、、、I表に加えて、電車特定区間内、山手線・大阪環状線内、それと別で特定の路線に加算運賃が適用される。そうかと思いきや、私鉄路線と競合する区間は”特定区間”として、個別に割安な運賃が設定されていたりする。

 運賃と同じ要領で、しかし別枠で料金のルールが定められている訳で、業界人やマニアを除けば、わけわからん!となるのは当然と言える。だからこそ、事前に入金さえ行っておけば、読み取り機にタッチするだけで、自動精算してくれるICカードが革命的で爆発的に普及した訳だ。

 しかし、それによりICネイティブ世代(仮称)が、切符や定期券の大まかな仕組みをよく分からずとも使えてしまう反面、仕組みを知らないが故に、何かあった際にパニック状態となっても不思議ではないことは、キャッシュレス決済が普及した結果、お釣りの概念が分からない子が居ることが話題となったことからも、あり得る話ではないだろうか。

 これらを踏まえると、そのものズバリな解決策が思い浮かばないのが正直なところだが、大人は子どもだからと舐めずに、大人と同じ個別の人格を持つ人間として接することができるだけの精神的余裕と、教養を身につけることが大切ではないだろうか。

 親であれば、子どもにはきっと理解できないだろうと端折らず、いざという時のために、現金払いを含めたバスの乗り方を教えるだけの知識と余裕が必要だろう。

 運転手であれば、人格を持つ同じ人間として接する意識を持てるだけの余裕があれば、不適切な接客には至らなかったかも知れない。周囲の大人も助け合いの精神や余裕があれば、異変に気付いて2時間歩くことはなかったかも知れない。

 私の出自からして、普段であれば、劣悪な労働環境を散々放置しておいて、時間や精神的に余裕のない運転手に仕立てておきながら、問題が起きたら運転手個人に責任を押し付けるのは組織に問題があるのではないか、もっとドライバーを減らしたいのか的な現業職擁護の論調に終始しがちである。

 だが今回はあくまでも、運転手にも非はある事実はそのままに、どうすれば小学校低学年の児童が2時間歩かずに済んだかを、極力中立的に考えてみたが、中立というのは難しいもので、どこかに己の思想が滲み出てしまうものだとつくづく思う。


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