若者は、生きてるだけで、修行僧
愚か者め、若者が食えない社会にしたのは誰だったかね?
マスメディアで選挙の話題になるとやれ若者の選挙離れだ、消費が鈍いと若者の〇〇離れだと、社会の超マイノリティである若者をサンドバッグにすることで、主な視聴者である高齢者を悦に浸らせては、スポンサーの商品を購買に繋げるのが民放のやり口である。
とはいえ、年寄りが「最近の若者はけしからん。俺が若い頃は…」と愚痴をこぼすのは、古代エジプトの粘土板に刻まれたヒエログリフでも確認されていることからも、この5000年間人類は何も変わっていないとも取れる。
”愚痴”という字は、「愚かなる知性の病」と書く。要するにバカ丸出し以上でも以下でもないのだから、内心、歳を取ってもああは成りたくないと思いながら、そうならないために自分を磨き、絶えず価値観をアップデートする他ない。
さて、そんな若者の選挙離れは、人口動態が高齢者に偏重していることに起因しており、一人一票の枠組みを変えない限り、若者が束になったところで、選挙の結果を覆すことが困難で、政策への影響やプレッシャーすら与えられない超マイノリティと化したシルバー民主主義による諦めの境地による部分が大きい。
今更若者が政治参加したくらいで、どうこう変えられない状況にしたのは、当時若者だった上の世代の”政治的無関心”にある訳で、その諦めから来る投票しても無駄を”若者の選挙離れ”として、今の若者に押し付けるのは、あまりに虫が良すぎる。
そして、若者の〇〇離れシリーズに関しても、お金がないことが全ての元凶だが、これに関しても今の若者には何の罪もなく、上の世代の”政治的無関心”や、バブル崩壊時に今だけ、金だけ、自分だけで既得権益を守り、現状維持という名の縮小再生産で問題を先送りした結果、若者が食えない社会にして来たツケを、氷河期世代以降に押し付けているに過ぎず、これもあまりに虫が良すぎる。
さとり世代は修行僧そのもの
一般論で、ダメ人間の4要素が酒、タバコ、ギャンブル、異性関係だとすれば、これら全てが若者の〇〇離れシリーズにノミネートしている。
酒飲まない、タバコ吸わない、ギャンブルしない、恋愛しない。これらはお金の掛かる浪費行為であり、それらにのめり込むほどのお金を得ることが、大学を出て定職に就くだけでは無理ゲー化しつつある。
今や大学生の過半数が奨学金という名の教育ローンを借りており、普通の家庭に生まれて、普通に大学に行くと平均288万円の負債を抱えて社会に出ている。その割に学歴のインフレが発生しているため、大卒でも労働集約型産業に就くことはザラで、初任給は安く手取りは20万円に満たない。
社会に出る時に負債を抱えないためには実家が太い親ガチャSSRか、給付型奨学金が難なく取れる天才でなければ厳しい。そして稼げる職に就くためには、受験戦争と就活の運ゲーをクリアしなければならない。
その無理ゲーをクリアしてまで、多額のお金を得ようとするくらいなら、足るを知って、欲を無くしていく方が、全ての要素が自分でコントロールできる分だけ容易であり、そうして修行僧にも似た”悟り”を開いているのがさとり世代たる所以だろう。
特に恋愛に関しては、ノイジーマイノリティによって不同意性交等罪に改められたことで、後出しで「同意していない」と言われたら、なぜか男性だけ逮捕されるリスクを負うグロテスクな構図となった。
よって若者は生きているだけで苦行に強制参加させられていて、かつ終わりが見えない状態なのが現代の標準的な若者像であり、悟りを開くのは上の世代が創り上げた社会に適合した結果に過ぎない。
そんな不遇な環境で、コロナ禍や消費低迷、選挙離れなど、事ある毎にマスメディアに悪者扱いされては、年寄りから「最近の若者はけしからん。俺が若い頃は…」と説教を垂らされたところで、内心「俗物どもが」と思うだけだ。
そうして、何を言っても無駄だと、ありのままのサンドバッグ状態を受け入れては、我々は冷や飯食いで構わないから、将来世代を手厚くしてくれと思う程度には人間ができている。これを修行僧と言わずに何と言う。
暮らしをダウンサイジングしているだけ
ここ数年、ミニマリストやシンプリスト、FIREムーブメントのようなニュータイプが注目されるようになったのも、さとり世代に限らず、今の社会に適合する過程で、暮らしをダウンサイジングすることが理に適っているからに過ぎない。
たくさん稼いでたくさん金銭消費することが豊かさの象徴だと、高度経済成長〜バブル期の幻影を引き摺っているオールドタイプからすれば、これらは無欲、知足を前提に暮らす修行僧と何ら変わらず、何が楽しくて生きているのか理解不能なため、世代間で分断が生まれる。
日本社会はこれまでの失われた30年で、等しく貧しくなる社会主義的な道を選んだ結果、権力の腐敗を生み出しただけでなく、若者が行動を起こしたところで、この社会は何も変わらず、結果に結びつかないことを何度も経験している。
それにより、氷河期世代を起点に学習性無力感を植え付けては、経済成長の芽を摘んできたことで、アドラー心理学で言うところの「自分の課題」に集中した結果が、節約やライフハックによる暮らしのダウンサイジングに行き着いている意味で、この根深い現役世代の修行僧マインドを、経済政策如きで変えていくのは至難の業だろう。
ここ1〜2年の賃上げも、仕方なしに非正規雇用や中小零細企業で食い繋いできた氷河期世代からすれば、大企業かつ正規雇用という一握りに与えられた特権に等しく、大多数からすれば関係ないか、仮に恩恵があったとしても税負担が重くなり、手取りが変わらないか微減するブラケットクリープ現象によって、働き損感が強いのが現状だ。
そうして、がむしゃらに働かず、出世もせず、生活費分しか稼がず、清貧、知足、無欲といわゆる”寝そべり族”を都合の良いように言い換えたのが、ミニマリストやシンプリストの類ではないだろうか。
かつて経済大国だった国が、貧しくなったことを真正面から向き合わずに、金銭的な豊かさではなく、心の豊かさこそが重要と説いて、この潮流が生まれているとするなら、これはもはや新興宗教に近い。
若者が普通に生きている限り、この形が最適解という構造が変わらない限りにおいて、生きてるだけで修行僧というのは、あながち間違っていないと思うが、いかがだろうか。