プロは美味いだけではない深い味わいを作る
今回は意外に耳にした事がある話ではあるが、身近にそれがあれば、かなりリアリティのある感動が得られる話だ。
お馴染み、西那須野日曜朝市に出店していただいているフェローといえば、おいおいと叱られそうだが、私はそれくらい身近に感じている「和郷」さんの話。
さすがと言う話をいただいてきた。
世の中、客が美味いと言えば、それが食べ物についての正義だと、口にする料理人さんもいる事は事実だが、それと似た話かもしれないが、目を通していただければ幸いである。
写真で揚げた食べ物の話をしたい。
また牛丼の話かと食傷気味になるだろうが、美味いものを作ると言うのが、料理人の宿命でもあるのでと言う話ばかりではないから、最後まで付き合ってもらえたら、嬉しい限りだ。
捉え方によっては、美味いのその先になる話だ。
玄人さんの食べ物作りは、洗練された出来上がりを前提に、素材と素材の合わさりがベストマッチングになるよう、厳しい目で素材を選定する。
あたりまえと言えば、そう言う事だが、それだけの話ではないものだ。
味わいの安定性、季節柄に合わせた味付け、これを上手く出来るのが玄人さんだ。
能書きはこの辺にして、先日耳にしたのが、この牛丼でのエピソード。
とある母子の話、お子さんは何がなんでも肉類を食べないのだが、もうここまで話すと、「あっ!それね!」ネダバレではあるが、これが身近にあれば感動はグンと上がる話だ。
とにかく、どこへ連れ歩いても、おわかりだろうが牛丼チェーン店では、まったく食べてくれなかったとの事だ。
それが、和郷さんの牛丼をお母さんが買って、子供にあげたところ、それをきれいにご飯粒一つ残さず、食べてくれたと言う話だが、これをよく考察してほしいのだ。
ここで話を終わりにすれば、あるある話で本当に終わってしまう。
子供の「感覚」が、そうさせたと言う話でもあると言う事。
細かな話はここでは省くが、敏感な感覚は、大人よりも子供のほうが長けている場合がある。
私が感じた事とは、普段、口にするものには、避けて通れない何らかの調味料やら、裏書きを読んでも、よくわかっていないものを日々食べているが、それらを無意識的に避けている勘が、子供たちの感覚にはあるのだろうと、私なりに感じるのだ。
どうしても、「魔法の粉」と呼ばれる業界用語に並ぶようなものも、経済ベースで物事を考える際には、避けて通れない手段となるものだ。
話を戻せば、人の身体が許容出来る、それらの魔法の粉を体内に入れられる量は、人それぞれとは言うものの、まずは嗅覚が頼りだったり、勿論、最後は味覚に訴えるわけだけど、食べられない何かを食べられたと言う事は、それらの要素もあったのかなと、素材と味付けに、何らかの拘りがあったと言う現れや理の存在を感じたのは、私だけなのかは別としても、たいへん喜ばしい話だった事は間違いないのだ。
好きずきで片付ける話ではない事を感じたので、プロの凄さだなとnoteにまとめてみた。
私の主観、和郷さんの牛丼とは、食べた後に舌が焼けるような感覚がなかったので、後味のしつこさがなく、とても食べいやすい事が、とても好きなメニューである。
是非