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大企業を辞めて、下駄屋の経営を任された今、#天職だと感じた瞬間

reshack|We matter little, unlike what we inherit.

「ファミリーベンチャー」の未来のために

2021年、サラリーマンをしていた私は、ご縁があって東京神田のとある履物屋さんの経営に携わる機会を得た。

意を決して30歳そこそこで脱サラし、全くの畑違い、しかも明治創業の個人商店の経営をどうにか立て直して改めて痛感したのは、家族経営の小さな商店が現代で直面する山積みの課題と、一方で、そんなお店だからこそ持っている人間的な継ながりの強さや、その価値だった。私たちの他にも、同じように困っている人たちがたくさんいるはず。

自分の経験を活かして、そんな人たちの手助けをすることはできないかーー

日に日にその想いは強くなり、また色々と調べる中で、実はそんな私たち自身のことを何と呼べばよいかも分からないと気づいた。

「家族経営」「個人事業主」「スモールビジネス」…どれも、私たちの一側面でしかない。そこでまず、家族や小さな組織で運営される、お店・工房・生産者さんなどそれぞれ小さな、しかし人々の歴史や絆と共に歩んでゆく大切なビジネスのことを「ファミリーベンチャー」と捉えることにした。

「継なぐ」ということ

「小さな家族経営の事業者」ファミリーベンチャーには、特有の様々な課題と強みの両方がある。

また、そうしたお店がこれからも元気に活躍できる環境であることが、日本が持つ価値や、文化を、次の世代へ継なぎ残してゆく上で大切なのではないか。

現在は、それぞれの担い手が、それぞれの立場で、それぞれの課題に自力で取り組まなければならない。

後継者不足、価格競争、市場や生活スタイルの変化、複雑なサプライチェーン、地域格差の拡大、等々。

小さな私たちですが、力を合わせ、知恵を持ち寄れば、実は、解決できることがたくさんあるかも知れない。

その想いがつもりにつもって、私は会社を設立した。それが合同会社reshackだ。

reshackは、ファミリーベンチャーと一緒に考え、そのストーリーを人や、地域や、次の世代へと継なぐ手助けができたらと考えいる。これこそが自分の #未来のためにできること だと思っている。

「変わらずあり続けるために、何を変えるか」

私の会社はまだ小さな存在かもしれないが、継ないでいきたいものはとてつもなく大きい。

reshack|We matter little, unlike what we inherit.

今日は、私がいまの仕事が #転職だと感じた瞬間 の経験をお話しさせていただく。

大企業を辞めて、下駄屋の後継ぎになることを決意した日

2019年12月、私は下駄屋になることを決意した。

2014年に入社した会社で働き始めて6年が経とうとしていたときのことだ。そのころはまだコロナという言葉も聞いたことがなかった。もちろんマスクもせず、ふつうにお酒が呑めた。そんな世の中だった。

12月は忘年会シーズン。奥さんの家族との忘年会が神保町の牛タン屋さんで開催された。お義母さん義叔母さんと私たち夫妻、4人で牛タンとお酒を愉しんでいた。

そんなひとときで、私は下駄屋になることを決意することになる。

仕事が好きでたまらなかった

当時、サラリーマンだった私は、「仕事することが好き」✖️「仕事内容も楽しい」✖️「給与も十分」という最高の環境で働いていた。

それにも関わらず、この飲み会をきっかけに下駄屋になることを決断した。一見矛盾しているように感じるこの決断についてお伝えしたい。

なぜ大企業を辞めてまで、下駄屋を継ごうと思ったのか。
今振り返ってみると、毎日の仕事は楽しいけど心から楽しめていないような、ワクワクした日々が過ごせていなかったのが原因だった。

この気持ちを言葉で表現するならば、いわゆる「将来が見えてしまった」ということだと思う。

決して、「きっと、X年後かに〇〇になって、そのX年後に本社に戻ってくる。そして、どこでも活躍できる自分ならばいつかは役員に….」といった驕った話ではない。

仮に出世できるとしても、出世しないとしても、「答えがわかるには数十年かかる」ということがわかり、少しだけうんざりしてしまっていたのだと思う。
(もちろん、私という人間がサラリーマンの年功序列型社会に合っていないということも原因のひとつではあるが…)

「会社が嫌で嫌でたまらない!」とか、「毎日の仕事がしんどすぎる!」といったネガティブな理由で会社を退職したわけではなく、ポジティブな新しい一歩へのチャレンジとしての退職だったからこそ、”今”があるように思える。

きっとネガティブな理由で退職するための手段として今の道を選んでいたらーーー
怖すぎて想像すらできない。

少しの自信と酒の勢い

話を牛タン屋の中に戻す。

普段通りの何気ない会話を楽しんでいたが、ふとした時に話題は奥さんの家族の稼業である「大和屋履物店」のことになった。

当時、大和屋履物店は80代の義祖父母がお店に立って切り盛りしていた。そこに義母がサポートに入っている形だ。(もちろん、これはこれでものすごく情緒的で良いことではある)

80歳を超えると体力・体調の面が心配だ。それに加えて、何やら義母・義叔母にもお店の将来のことで考えていることがあるように感じた。不安と同時にやりたいこともある。どうやって進んだらいいかわからない状況のようだった。

私はワクワクした。不思議だがワクワクという感情しかでてこなかった。文字で書くと、失礼なやつに感じるかもしれないが、私の心は高揚したのであった。

なぜワクワクしたのか。

まず、目指す姿がはっきりとあること。そして、そこにどんな人材が必要なのかが明確にあったこと。この2点を聞いた時、変な自信が湧き上がってきてしまったのだ。

「あ、自分でパズルが完成するじゃん!」

そう感じた。謎の自信に満ち溢れていた。会社生活で身につけたスキルと知識を活かせると思ったのだ。

そう感じた時、すでに「私にも協力させてください。」と発していた。ビールならばほとんど酔わない私ではあるが、慣れないワインのせいで酔っていたのか、かなりの思いつき発言ではあるが、そう口にしていたのだ。

いま考えると、奥さんに何の相談もせずに勝手に下駄屋になる決意を酔っ払ってしていたのでひどい旦那だと自覚している。

さらに言うならば、この時私の頭には「奥さんの実家だし反対できないだろう」という計算もすこしあったので嫌なやつだということも自覚している。
そして、その発言を受けた義母と義叔母。さすが神保町出身の江戸っ子!「いきでいなせ」なもので、細かい事を気にせずにお義母さんたちも大賛成してくれた。

もしかしたら超安定の大企業で働く男性と結婚することが夢であったかもしれない、私の奥さんの意見なども気にすることもせずに…

リニューアルまでまだ1年半

こんな勢いで決断した私の転職(独立?)だが、そこから間も無く3年が経とうとしている。結果は、まったく後悔をしていない。

もちろん、リアルな部分で言うと、収入は減ったが、チャレンジすることで一時的に収入が減ることは許容しないといけないことだと考えている。

何よりも変え難いのは自由な時間が増えたこと。そして出会える人の幅が広がったこととその人数の多さに驚いている。これはどちらも自分自身の成長に大きく寄与していると思う。

いま書いてきたことは、2019年12月の出来事。その後のリニューアルオープンは2021年の5月。1年半の月日が流れることとなる。

「大和屋履物店」の改装計画はこの1年半の間にたくさんの話し合いを重ねてきた。どれも重要な話し合いだった。

もちろん、経営に関して全員で方向性を合わせるといった内容であったが、それ以上にお互いの信頼関係の構築の時間でもあった。

どんな打ち合わせをしてきたのか。私はその中でどんな役割を担ったのか。次にそれについてお話ししていきたい。

下駄屋を継ぐと決めてから、1年半の間にしていたこと 

私が下駄屋のためにできること

私が下駄屋の後継ぎになることを決意したのは2019年12月。

そして、大和屋履物店のリニューアルオープンは2021年5月。この間には1年半もの月日が流れる。

もちろん、この間に誰も予測していなかった新型コロナウイルスの流行というものが発生する。一見この期間はそれが影響したかのように感じるかもしれないが、私たちの中では最初からこの日程で決まっていたのだ。

当初、東京オリンピックは2020年の夏に行われる予定だった。なにを始めるにも、この行事が終わらないと進まないと考えたからである。私自身当時サラリーマンであり、その仕事でもオリンピック対応もあった。なにより、店舗改装の工務店も見つからないと踏んだのだ。

しかしながら、そんな考えも全てが無駄になった。謎の感染症の流行は私たちが外に出ることも、日本がオリンピックを開催することも、さまざまな自由を奪っていったのであった。

小倉家も私もやることなく、家にいることをお取り寄せグルメと飲酒でそれなりに楽しんでいた。それでも、一通りお取り寄せを楽しんだ時、進まないといけない気持ちになった。私たちはできることをコツコツとしていこうと、月に1回の定期ミーティングを重ねていったのであった。

この話合いにおいて「私が一番大切にしてきたこと」は「全員が思い描く方向性を統一すること」だ。

これを実現するための舵取りこそ、私ができることだと思った。私がやるべきことは自分のやりたいことを表現することではない。今の経営者と次の経営者の思い描く目指す姿を融合し、それを実現するための地図やストーリーを描くことなのだ。

そして、それが仕事としてワクワクして仕方がないことだった。

「下駄屋を下駄屋として残してほしい」

大和屋履物店は三代目である、小倉進さん、小倉ヤス子さんのお店である。
そして、これからは四代目の小倉佳子さんに代替わりを迎える。そして、佳子さんは私の義理の母だ。

そして、佳子さんの妹が江戸染色作家、小倉染色図案工房の小倉充子さん。

そして私が大和屋履物店の五代目店主である。

非常にわかりにくい。

この説明を何度もするのだが、大抵は私と佳子さん、もしくは私と充子さんが夫婦と勘違いされることが多い。時に、大和屋履物店は若い胡散臭いコンサルタントに乗っ取られたという噂もたった。本来ならば誤解を解くために工夫をするべきではあるが、面白いからあえて図示せずこの難解さのまま放置している。

話しが脱線したが、私が今回するべきことは、三代目の想いを引き継ぎながら、四代目に代替わりをする手助けをすることである。そのためには、三代目、四代目、五代目が共通の想い、つまり同じビジョンを持っていないといけないと思う。その中で、それぞれが個々の強みを発揮して経営していくことこそが大切なのだ。

私は一番最初に三代目店主のヤス子さんに話を聞いた。

「大和屋(履物店)、どうなってほしいですか。」

「下駄屋が下駄屋として残っていってほしい。」

ヤス子さんの答えはとてもシンプルなものだった。

「悪いことは言わないから、辞めるか考え直した方がいい」

ヤス子さんの発言はシンプルだが、非常に想いの詰まった発言だと思う。

仮に、経営者として利益を最大限に出すことを目的にした場合、神田神保町の靖国通り沿いの一角を下駄屋として残しておくよりももっと有効な使い方ができるのではないかと考えることは自然のことである。

少し話が脱線するがお付き合いいただきたい。

先日、赤羽で旧友と飲んでいたら隣の席の50代男性の方に話しかけられた。すこし仲良くなり会話をしていると「お兄ちゃんの仕事は何しているの?」と訊かれた。私は「下駄屋の経営です。」と答えたのだ。(正しく言うと違うのだが、説明が複雑になるのでこう伝えることがある。)

その男性は「悪いことは言わないから、辞めるか考え直した方がいい」とアドバイスしてくれた。

このアドバイスは間違いではないと思っている。私にとっての下駄屋をやる目的が”お金を稼ぐこと”であるならば別の手段を取った方がいいからだ。
しかし、私の場合目的は違うのでこれを鵜呑みにすると間違えた方向に導くかれてしまう。他人にアドバイスをする場合、その人の思い描く理想の姿や現在の状況についてしっかりと把握することが大切だと思う。

つまり、私の役割においては、三代目・四代目それぞれの大和屋に対する想いや充子さんが実家である大和屋に対する想いを正しく理解した状態で話を始めないと取り返しがつかないことになる。これを疎かにすると、すっかり間違えた地図を描いてしまう危険性がある。

ヤスコさんの「下駄屋が下駄屋として残ってほしい」という想いには移りゆく街を見てきた中での想いもあるはずだ。仕切りに昔からのお店がなくなってしまった。店主同士で情報交換していた井戸端会議も無くなってしまったのであろう。

さらには「何があっても下駄屋を売るんじゃねえぞ!」と二代目に言われ続けたとヤスコさんはしきりに話してくれた。ヤスコさんは先代の想いを受け継いで実行しているのだ。

この想いは私たちの代で終わらせるわけにはいかない。だからこそ、私たちはこの「ビジョンの共有」にたくさんの時間を割いた。たくさんの議論を重ねた。議論の度に、佳子さんと充子さんに宿題として「大和屋の歴史について振り返ること」と「大和屋がどんなお店になったらワクワクするか」について考えてもらった。

それを月に1回共有しては、もっともっと深掘りしていった。

なぜそう思ったか。なぜそう感じたのか。なぜ大和屋でそれができると思ったのか。

そしてお互いのなぜについても全員で共有し考えを深めていった。

佳子さんから出た思い描く将来像は「人が集まるお店になってほしい」「神保町を知ってもらうきっかけになってほしい」。

充子さんからは「日本の素晴らしいもの、有形・無形に関わらず残していくことに貢献したい」。

そしてこれに三代目の「下駄屋を下駄屋として残す」という想いを重ねた。

導き出された結論は「文化を継なぐ店」というビジョンを掲げることになった。

経営者がたくさんいるお店

私は会社員から経営者になることになった。一方で、経営者になるまでに1年半の猶予がある。そこで私は少しずつ知識を入れることから始めようと考えた。

なぜならば、仕事の生産性は「知識×スキル×スタンス」で成り立っていると思っているからだ。

仕事で結果を残したり、生産性を高めて多くの仕事を処理するためにはこれら3つを研鑽していく必要がある。特に、経営者となりお店の将来を担う立場となるからには自己研鑽に妥協はできない。

コロナ禍に突入し、在宅ワークがスタートし通勤にかかる時間がなくなった。その時間を活用し、後継ぎなる準備を始めようと決意した。

そう思ったとき、ふと思い立ったことがあった。いまから一緒に仕事していく「大和屋履物店」をとりまくメンバーのことだ。

いまの店主は、まもなく90歳になる三代目夫婦はまぎれもなく経営者である。

そして、次の代として引き継ぐ義母の四代目は今から一緒に経営者になる。

さらには、仕事で常に関わる義叔母、染色作家の充子さんも自分のブランドを持つ経営者である。

なんとも経営者が多い。これだけ経営者だらけの環境ならば、一緒に勉強していくことが有意義だと感じた。

そう、家族経営のお店は全員が経営者であり、意思決定機関なのである。

「文化を継なぐ店」の実現に向けて、全員で経営戦略を考えることにした。

経営戦略とコミュニケーション

私は知識を身につけるために、主に2冊の本で学習した。

新しい経営学

メリット

  • 経営学の基礎について体系的に学べる

  • 事例などをもとに説明があるので、予備知識がなくても理解ができる

  • ケーススタディを通じて簡単なアウトプットができ、理解を深めることができる

デメリット

  • 経営学に精通している方にとっては若干の物足りなさがある

  • 本当に基礎なので、リアルな現場に落とし込むにはそれなりの工夫がいる(初心者向け)

改訂版 強い会社が実行している「経営戦略」の教科書

メリット

  • 実際に策定していく際のプロセスがとても分かりやすく整理されている

  • 説明が端的なので、読みやすい

デメリット

  • 実際にプロセスを進めるには分析が必要であり、その手法については他の本で学ぶ必要がある

  • スタートアップというよりも、現在の経営戦略をあらためて見直す向けである

一冊目の『新しい経営学』で経営とは何かを簡単に学んだうえで、二冊目の『改訂版 強い会社が実行している「経営戦略」の教科書』のプロセスに沿って、経営戦略を立案していった。

ここで良かった点は、私一人で進めなかったことだと思う。

月に一回の定例会議に合わせて、この本で学んだことを一緒に働く仲間に伝えるための準備をした。そして、その知識をもとに全員で「大和屋だとどうなるか?」についてディスカッションすることができた。

そうすることで、自然と全員に知識がついていく。さらには、全員の話し合いで決めた「経営戦略資料」が出来上がったのだ。

『全員の話し合いで決めた「経営戦略資料」』。この存在が何よりも大切だと思う。

実は私にもサポートしようとしたもののうまくいかなかった経験がある。それは、私の本当の「実家」である。

私の実家は栃木の山奥で温泉旅館を経営している。そして、その旅館は父から兄へ代替わりが行われた。そして、今年2022年年明けに経営のサポートの依頼があった。

私自身、自分の実家だからこそどうにかしてあげたかった。しかしながら、さまざまな課題が山積されており断念せざるを得なかった。(詳しく書けずに申し訳ないです)

きっと、こうなってしまった背景には、先代と今の経営者が相互に「経営戦略の共有」ができていないことが挙げられると思う(もちろん、これだけではないが…)。

小さなお店であればあるほど、コミュニケーションを密に取ることが大切であり、お互いの信頼関係と尊敬が大切だ。

「経営戦略の共有」も大切なコミュニケーションの一つであるからこそ、私はこれからも一緒に作り上げていくことを重要視したい。

その後ーーー

経営戦略ができあがってからの、具体的な実行策を考えることはいよいよ私の腕の見せ所だ。

たくさん知恵を絞って、できること・できないこと、いろいろと考えた。

そして、無事に2020年5月のリニューアルオープンを迎える。

そこから1年以上が経った今、おかげさまで下駄屋は「文化を継なぐ店」としてスタートを切れたと自負している。

リニューアルから1年を迎えた今、この経験を他のファミリーベンチャーに波及させるためにreshackという会社を設立した。

私の #天職 はちょうど今、動き始めたばかりなのだ。



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