万津人0006:有吉多恵子
大きいお線香みたいにね、大砲の弾を束ねるの。
有吉多恵子と申します。昭和3年生まれです。私生まれたのはね、駅の前で、旅館してましたもんね、実家が。そこで生まれましたんですよ。今ビルみたいになってるその隣、おじいちゃんの時代からそこで旅館してまして、そこで生まれました。そいでもう、まだね、交通が頻繁に無かったからね、よく子どもたちで集まって「あのトラックがいったら、あそこまで、駅まで競争しよう」ってね、学校に行く前は、よくそういうような遊びとかなんとかしてましたよ。
戦時中でね、私たち学校のときに、上から港が見えますでしょ、そして、上からこう、飛行艇なんかが飛んでくるのを見てるとね、スパイって思ってね、すぐ憲兵からひっぱられていきよった。だから、あの、港が見えるとこのおうちはね、全部ね、板でこうしてね(窓を覆い)、見えないようにしてましたよ、白南風(しらはえ)町の上の方はね。
小学校の時は、お習字を習ってましたね。5、6年生ぐらいに行きましたね。でも、戦争がひどくなりましたからね、もう、女学校の1、2年ぐらいで、やまりましたね。だってみんな動員でしたからね、あちこち、SSK(佐世保重工業)の方の工場に行ってみたり、それから私たちは船に連れられてどこに行くかと思ったら、前畑の方に行ってね、あっちの方のね、大砲の弾を束ねるの。お線香みたいな大きいね、大きいお線香みたいな、こんなおっきいんですよね、それをね、8つぐらいに上の方をね、束ねるのを流れ作業でした覚えがありますね。筒にどうして入れるか知らないけど、座っとって流れ作業っていうんですかね、そんなのをさせられましたね。
私たち、毎日そこに歩いて行って作業してましたね。靴は配給で、1年にいっぺんしか配給がなくってね。ゴムの底がね、日本じゃゴムが取れないから、南方から取り寄せてたのが、もうストップしてしまって、あるものでしてたんでしょうけど、それが1年も履いたら、ほげるんですよ、あちこちね。で、それをもう、仕方が無いから中に馬糞紙を敷くけど、今みたいにビニールみたいのがないでしょ、それでいくと、雨が降ると馬糞紙のところがまた濡れるでしょ、もうほんとに履物には往生してましたね。
バスにはね、その頃はもう乗れないんですよ、ガソリンがないでしょ、だからね、木炭バスですよ、だからね、もう元気な人は乗せないの。みんな歩け歩けって。今の佐世保北高のところまで、歩いて行ってました。やっぱり一時間以上かかってましたでしょうね。でも、みんなそんな風だから、それが当たり前で、不服なんて思いもしませんでしたね、そのためか弱かった足も強くなってね。
お友達は、親しくもないうちに別れて。
中学校っていうのは無かったんですよ。小学校からね、受験していろいろ。6年生の後、女学校に行かない人はね、高等課っていって、2年間ね、小学校の続きがあるんですよ、そんなのがありましたね。
女学校の2年生ぐらいからもう、あちこちの工廠(こうしょう。軍需工場のこと)にやられたり、みんな別れてしまいましたからね。お友達はあんまりね、親しくもないうちに別れてしまって、たまーにね集まって、卒業式なんかで、「賞状もらうのに集まれ」っていうと、空襲が鳴るんですよね。そうすると、その卒業証書もう、後で配ってね。学校にはあんまりなじみはなかったですね。
女学校は、昔は「成徳(旧成徳高等女学校)」って言ってましたもんね、そこに行ってましたけどね。ほんで、女学校卒業する頃にね、長崎の短大のところに受験しに行ったんですよ。4、5月くらいに試験があるのにね、もう空襲がひどくなってね、遅かったんですよ。友達と2人でね、旅館に泊まって、受験したことを覚えてますね。試験といっても、机をみんな後ろにやって、口頭試問ぐらいなもんですよ。で、あと、学校の成績がそこにいってね、(合格の)通知が後から来ますけどね。
もう、葉っぱなんかが焦げてしまってね。
長崎の短大ではね、宿舎にお友達と2人で入ろうと思って、リヤカーでね、布団袋に教科書とか、傘とか入れてね、貨物として佐世保駅に送りに来たんですよ。そしてリヤカーを元に戻して、お友達と2人で汽車に乗ったらね、もう諫早のあたりでね、消防署のね、消防団の人がどんどんどんどん乗ってくるんですよ。
もう何事かと思ってね。長崎がね、なんか、爆弾でやられたっていってね、みんな、消防団で手伝いに行ってんですよ。だからもう長崎まで汽車が行かないで、長与で止まって、そこで、先はもう行かれないから、待ってましたけど、とてももう行かれない、そしてみんな降りたんですけどね、降りてもやっぱり敵機がね来るんですね、長崎に原爆なんかを落としたもんだから、8月の9日だったんですよ。それがね。そいでね、私、8月の10日に宿舎に入るようになってたから2人で行ってたんですけどね、とてもとても、もうそこまで行き着くまでなくってね、長与で汽車が止まってしまって、そこから先は行かないっていうからね、仕方なくみんな降りたんですよ。
そいで、行かなかったら、自分の家に帰らなきゃしょうがないでしょ、帰ってくるにしても、汽車が動かないんですよね、ほいで、待ってたけど、長崎の方、長与の方からくる方がね、もうなんかこう、ボロボロになってきた方が両方に、少し元気な人に抱えられてね、こう歩いてきてね、もう汽車の中に入ってきてから、椅子に腰を掛けきらんでね、下にべたっと座るので精一杯、それで、私たち健康な人たちは降りてくださいって言われてね、降りてきたけどもう汽車も、長崎には火の海で行かれない、そしたらもう、戻るしかない、戻る汽車も動かないんですよ、なかなかね。
そいで、しょうがないからね、見てみたら、駅の前のこのお百姓さんの家かね、もうみんな、山に逃げて留守なのよ、そいで畑なんかのなすびのね、ちりちりのとこ、もう葉っぱなんかが焦げてしまってね、ぶらんとしたなすびが1、2個下がっててね「私たちはどこで過ごすのかな」って。私たち2人でね、みんな山に行こうっていうのでね、近所に小さい小山があったんです、そこで、近所の人がみんな疎開して、逃げてたからね、そこに行ったんですけどね、もう、そこの防空壕は人が入っててね、入れないから、防空壕の前にいて、夜通しね、空を眺めてました。
それでね、あの、荷物がね、布団袋に入れた教科書なんかがね、浦上の方に(原爆が)落ちたでしょ、そこ通り越して、長崎駅に着いてるのね、荷物が。年末頃になって、布団袋が送ってきましたよ、自分の身体も荷物もね、全部無事でしたね。でも、なんかもう、気持ちがね、行く気がしないでね。「12月くらいまでに、宿舎に入ればいいから手続きすれば」って友達から言われたけどね、行く気がしなかったですね、食料もものすごく悪かったですもんね。自分の家でさえそんな食べれるもんが無いのに、長崎に行ってね、どうして食べてくんだろうかね、っていう思いもあったし。
大変でしたよ、食べていくのにね。
家から送ってもらうような固形物っていうのは無いんですよ、テレビで見る一升瓶のなかに棒を入れてつっついてね、玄米を突っついて、それを雑炊のようにして、食卓の前にね、お茶碗とお箸と漬物のお皿ね、たくわんを自分の家で作って、お大根を作って、ちょっと干して、それからたくわんにして、それしかおかずがない。でもね、よく栄養失調で死ななかったね、みんなそれぞれね、どうにかに生き延びたことがありましたね、ほんと。
だから戦中はねいくらか細々と配給があったけど、戦後はもう乱れてしまって、配給が無いでしょ、だからもう、闇の人がだいぶん儲けるっていうんですか。でもね、闇の人もね列車で行くでしょ、あとからどんどんお米なんかを入れてね、列車が出発する頃にはもう、デッキの上につかまってね、もうすれすれにね通って行くようなもん、もういっぱいでしたもんね。大変でしたよ、食べてくのにね。みんな、なんとかね。
お米の代わりにね、お砂糖が配給があったことがあったんですよ、あの黄色いザラメね、あれあったって、どうしようもないでしょ、お米の代わりって言ったってね。それでね、おせんべい屋さんに行ってから、おせんべいに変えてもらってね、味の薄いね。戦中よりも戦後の方がひどかったですね、闇の人はどんどんどんどん太りあがっていくし、庶民の人はもうなんも知らず、食べものにひどく困って……おまわりさんなんかもね、自分に厳しい人なんか、餓死して亡くなる人とかいらっしゃいましたよ、その頃は。
大変な時期です、戦後も。戦中も大変でしたけど、戦後も大変です。もう国はほんと戦争するもんじゃないよ、国民を犠牲にして。
有吉家へ嫁ぎ、万津町へ。
私、お勤めはしたことないの、割に早かったでしょ、結婚が。20歳でしたかな。お見合いでしたね。(嫁ぎ先の)有吉家が、松山町に疎開してましたもんね、上佐世保のところ。あそこに疎開してましたから、私もそこに行きました。
有吉家は戦前からね、ここ(万津町)で回漕店と旅館をしてました。道向こうでね、150坪の家でね。でも疎開して、回漕店で松山町にいたって仕方がないしね、商売にならないから、早くこっちに来ようと思ったけど、引き揚げの人とかなんとかが入り込んでしまってね、もう余地が無いんです。
だから自分の土地なのに、お金出して、少しずつ出て行ってもらってね。軍の関係の人も居住してましたもんね、それを元に戻してもらうように、なんべんも陳情に行って、やっとここに入れたのが、いくつでしたかねぇ。だいぶ経ってからでしたね。まだその時は、海はそこでしたからねえ。そこが全部海でしたもんね、そこの建物ね、なんですか、今のスーパー(させぼ五番街)ね、あそこまで、ずーっと海でしたよ。今、塩浜町の商店街があるでしょ、あそこの裏ぐらいまでね、海が来てました。第一桟橋、第二桟橋ってありましたもんね。
回漕店の船もね、戦争で動員されたんですよ。でも乱暴に扱ってるもんだからね、もう船底が傷んでるんですよ。それでみんなで揚げて、船底を修繕しやり、だいぶかかりましたね。ダンベ船っていう、物を積む専門の船なんですよ。皆瀬にね、皆瀬炭鉱があって、石炭が出てましたでしょ。それを積んで、大村の発電所とか、相浦の発電所とかに納めてたんですよ。運搬業ね、そんな風でしたね。
朝食のお店なら、私にもできるかなと思って。
私は子供がすぐに生まれましたからね、手伝うっていうほどの手伝いはしてませんでしたね。長女、長男、次男と、3年ごとくらいにね。
長男と次男がね、大学が重なった時があったんですよ。1人の時はね、主人のあれでなんとかしたけど、2人重なってると、生活費と授業料と、もうごっそりいるでしょ。それで、どうしようかねえと思ってね……主人は私が外に働きに行くのを嫌うんですよね、で、家でできることと言えば内職ったって、そんな微々たるもんでね。
で、町内をぐるーっと回って、みなさん何をしてるのかなって思って見てたらね、吉田食堂、あそこがね、朝の5時くらいからやってるんですよね。「えー、こんな早くから何事か」と思ったら、一番列車が5時頃着いて、港の待合所が6時くらいからしか開かないんですね、その間ね、荷物を預けたり、食事をしたりして、そこで過ごしたり、ぶらぶらしたりしてね。
朝の食事っていえば、朝食ですよね、ご飯とお味噌汁と……それだったら私にもできるかなと思って。でも、同じことしたって商売敵で嫌がられるから、それにコーヒーとトーストの軽食でね、両方したんです。朝4時とかからね。
うちは目立たないでしょ、通りが入ってるからね。だから、電気のついた看板を少し前に出してね、目立つようにして。そしたら、福岡なんかから、その当時ね、五島に魚釣りとか、よく来てたんですよ。その人たちがもうどんどん入ってね、忙しいのなんのって。もうほんとに忙しくって、朝から主人にもコーヒーを淹れるの手伝ってもらったり、おばさんにも頼んでね、その人にも来てもらったりして、夏休みなんかは、学生にも3、4人来てもらったりしてさ。大繁盛でした、その頃は。(子供たちを)学校に出す間って思ったけど、ずるずる続けて、10年くらいしてましたかね。「ロビン」って名前で、ここの隣でね。
でも、港が変わって、桟橋が向こうに行って、待合室も向こうに行ったでしょ。もうそれで、パッとやめてね。その時、60くらいでしたかね。お店閉めて、海外旅行に行ったの(笑)。
お茶でも飲んで、おしゃべりしたいんだけど、寂しいね。
万津町は小さい町だけどね、まとまってますよね。でもほら、昼間は居ても、寝泊まりする人は少ないですよね、この隣保班は特にね。吉田食堂とそこの薬局と……お隣もいらっしゃらないし、やっぱり夜は寂しいですよ。だんだんご近所がなくなってしまってね。
主人が亡くなったのが、もう来年で17年忌になりますから。寂しいですよ。息子たちが東京から時々帰ってきますけどね、まあ、1週間、10日居ますけどね、帰った後が、やっぱり1週間くらい寂しいね。食事を1人でしなきゃだしね。寝るまでの時間がね。
昼間はいいんですけど、こんなしてね。ここに座って、道行く人を眺めながら、新聞読んだり、本読んだり。お友達と遊びに行ってみたりもしますけど、もうやっぱり、しょうがないね。どうしてもほら、朝でもお味噌汁作ったりなんかができなくなったら、もう施設に行かなきゃねって私が言うと、妹が「その前に病院でしょ」って言うからさ(笑)。「それもそうね」って思って。でも、週に2回ね、デイサービスに行くと、いろんな体操があるでしょ、あれするだけでも、やっぱりいいですよね。
せめて隣保班っていうか、町内全体じゃなくても、このあたりだけの集まりがね、月にいっぺんくらいあるとね。何人かで集まってお茶でも飲んで、おしゃべりしたいんだけど、なかなか集まりがないとね。でも、住宅街よりましなだと思いますね、スーパーも近いし、散歩に行くにしても、恵比寿神社に行ったり。息子が帰ってきたら、押し車押してね、海の方に行って、ベンチで座って、いろいろ話したりしてね。まあ私も、今年いっぱいすれば、もう5でしょ、95。もうそこらへんで、いいんじゃない(笑)。
取材・文:小林 愛純(長崎県立大学)
写真:永田 崚(tajuramozoph)
編集:はしもとゆうき(kumam)