コンシューマ機の誕生とアーケードゲームの転機
かくして世界初のアーケードゲームComputer Spaceが市場に投入されたのですが、残念ながら興業結果は燦々たるものでした。この「楽しいゲーム」の人気が出なかった理由はこう考えられます。
・ボタン4つによる操作が難しすぎた
・ゲームの難易度が高すぎた
「ゲーム」という新しいカルチャーにはじめて触れる顧客からすれば、1962年のオリジナル・バージョンから10年をかけて進化した内容は、マニアックすぎ、敷居も高かったのではないでしょうか。
ブッシュネルや当時のハッカー達は長年コンピュータに触れ、さらにSpace War!というゲームにも慣れ親しんでいたのですから、はじめてゲームという存在を知る顧客とはギャップがありすぎるのです。
これは21世紀のゲーム市場でたとえればゲーマーと呼ばれる人と、一見でゲームを遊ぶ人の関係にそのまま置き換えることができます。
後にブッシュネル自身が当時のことを振り返って原因を分析したのですが、やはり「操作が難しかったのではないか」という結果を導き出しています。
Computer Spaceは酒場の一角に置かれていたのですが、そのまま部屋の片隅で朽ちていくことになってしまったのです。
その一方で世界初のコンシューマ機『Odyssey』(1972, Magnavox and Sanders Associates)が発売されたことで、 アーケードゲームはひとつの転機を迎えます。Odysseyはサンダース・アソシエーツ社に勤務していたラルフ・ベアが考案した家庭用ゲーム機です。
ベアは「TVを使って何か新しいことができないか」と日頃から考えており、1966年8月のある日、バス停で仲の良い同僚を待ちながら「TVでゲームをやるというのはどうだろうか?」とひらめいたそうです。メモ魔だったベアは、すぐさまTVゲーム機の構造などをメモにまとめ、試作機の設計に着手しました。
当時アメリカではベトナム戦争(1960-1975)の影響もあり、経済状況が思わしくありませんでした。したがってベアが試作機である『Brown Box』を完成させるまでに約3年の月日が流れ、1969年頃になるまで陽の目を見ることがありませんでした。
ベアはビデオゲームに関する特許申請をサンダース・アソシエーツ社より行っています。特許内容は「記号や文字などのキャラクタの情報をテレビ受像機を経由させてモニタ上へ映す」というもので、ビデオゲームをテレビモニタで遊ぶための基本的な部分をほとんど占めていました。
ですから、Odysseyの製造・販売を行っていたマグナボックス社がは、サンダース・アソシエーツ社に特許料を支払う必要がありました。しかし、マグナボックス社はビデオゲームの製造・使用・販売というあらゆる権利を独占的に保有することに成功しました。これにより、マグナボックス社以外のゲームメーカーは、ビデオゲームを製造・販売するためにマグナボックス社からの許諾が必要となってしまったのです。
マグナボックス社からの許諾を得ていないゲームメーカーは、 ビデオゲームに関する特許の無断使用を理由に訴訟を起こされましたが、マグナボックス社が権利を独占的に行使してしまえば、逆にマグナボックス社が独占禁止法違反に問われます。
マグナボックス社は独占禁止法の制裁を受けないようにするため、第三者にも製造権などを与えること(再実施権)が義務づけられたのです。
この許諾問題について、アタリ社だけは例外的な存在でした。それは別の観点からのビデオゲーム特許を取得していたことにあります。アタリ社もマグナボックス社から訴訟を起こされましたが、マグナボックス社もアタリ社の特許に抵触する可能性があったのです。そこでクロスライセンスを結び、互いの権利を尊重しようではないかという形で和解をしています。
Odysseyは10種程度のゲームが遊べるのゲーム機で、カートリッジを差し替えて遊ぶことができました。ただし、ファミリーコンピュータのように遊びたい人がカートリッジを差し替えるのではなく、すでに本体へ組み込まれたものを切り替えて遊ぶというものでした。
この中で『Pong Tennis』(1972, Magnavox)というテニスゲームがあります。このゲームを遊んだブッシュネルは大変な刺激を受け、アペックス社から引き抜いてきた同僚のアラン・アルコーンにアーケードゲーム機として作成するように指示します。
アルコーンにはゲームの開発経験がないため、ブッシュネルはまず小さなプログラムを作成させて勉強してもらうつもりの軽い気持ちで依頼したのです。アルコーンはほどなくしてテスト機を完成させました。
ブッシュネルはそのテスト機をカリフォルニア州サニーベールにあったアンディ・カップ酒場に設置してきました。ブッシュネルは試作ゲームだったこともあり、それほどインカム(売上)は期待していませんでしたが、いざ蓋を開けてみればあっという間に大人気ゲームになったのです。
試作品の故障連絡を受け、現場に駆けつけてみると、一杯になったコインカップからあふれたコインが回路をショートさせていたのです。
この試作ゲームが人気になったのは、アルコーンが組み込んだちょっとした工夫にありました。つまりゲームデザインが優れていたのです。それはパドルでボールを受けた際に、ボールがパドルの外側にあるほど浅い角度で反射するようになっていたのです。パドルの中心から見ると、ボールは放射状に反射するような設計になっていたのです。この工夫がゲームの単調さをクリアしたのです。
人気の秘密はもうひとつあります。それはPongがComputer Spaceと違ってルールが明確で、気軽に遊ぶことができるゲームだったからです。こうして爆発的な人気を得た『Pong』(1972/9, ATARI)の成功がアーケードゲーム市場を切り開いたのです。