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もし今日が最期の日なら

もし今日が最期の日なら、自分はなにをするだろうか。

その問いが頭から離れない。今日を生きた証を残さずにはいられない。なにか自分がここにいることを証明しなければ。なにか進捗を出さなければ。なにか少しでも自分を成長させなければ。そんな焦燥感に駆られる。これまで漠然と捉えていた死がなぜか鮮明に見える。

だけど、定期的に虚無感に襲われる。生産活動の一切を放棄する。身体に力が入らない。多くの人々が自分の役割を持って一所懸命に活動しているというのに。あらゆる事象が絡まり合い、何がこの状態を引き起こしているのかわからない。鬱々とした感情。希死念慮。諦念。ネガティブな感情がこれでもかというほど溢れてくる。あまりにも辛いので、思考を解離せずにはいられない。

1時間ぐらいするとそれは消え、頭と身体が動き出す。それでも焦燥は完全には消えず、心の奥底で常に自分の行動を監視する。その活動は世界に対する自己の存在証明に値するのか(世界で他の誰でもない、自分だけにしかできないことなのか)?あるいはそれに寄与すると明確に理解しているのか?ノイズとして許容するとしても、それが本当に自分の欲や好奇心から来ているものなのか?

心穏やかになれない。一時的に平穏が訪れたとしても、またすぐ冒頭の問いが頭に浮かぶ。なんのストレスも感じることなく、一日過ごすことができたのはいつだっただろうか。もうすっかり忘れてしまった。自分の理想や目標、存在証明のために毎日を生きる。やることをやる。一日一日その日の証明をしつつ、長期的なそれのために今を丁寧に積み上げるのも欠かさない。辛すぎる。休むことなんて到底できない。だって、その日に死んだら、その日生きた意味がないから。

休むことの意味づけをすればいいのでは?とふと思いつく。だが、それは身体の自動作用に任せていればいい。心身が限界を迎えたら、勝手に動かなくなるだろう。それまでは死に物狂いで生きていくしかない。あの問いが自分の中から消えることを祈る。




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