「多次元科学への誘い」を読んで(複雑性の議論2)
SFCで安宅和人先生の「データ・ドリブン社会の創発と戦略(応用)」(通称:デードリ)を取っているのだが、そこで紹介された丸山宏先生の「多次元科学への誘い」というnoteが興味深かったので考察していきたいと思う。複雑性に関しては、以前BCGの栗原さんのお話をもとに考えてみたことがある。この時の私の考え(ひょっとするとBCGも)はまさに丸山先生が指摘されていた「還元主義」的思考であったと思う。丸山先生は情報処理機械の活用によって作用機序を理解することなく事象を「予測」したり、「制御」したりすることが可能になったという。ここで丸山先生は「科学の究極の目的は何か」という問いを立てている。
科学の究極の目的…
世の中のあらゆる事象を理解しようとする営みである科学の中で、人間が理解できないものをどのように扱うべきか。それでも我々は理解しようとするのか。非常に難しい…。同じ研究会の友達と議論した時に、「科学は『理解しようとする姿勢』なのでは?」という主張が出てきた。興味深い。その友達曰く、目的は各個人が定義するものであって、普遍的なものではないという。普遍的(一般的)な目的はあくまでも各個人が同意したものの一致解にすぎないという主張である。そう考えると多次元科学においても、「それでもやっぱり理解しようと努める」人々が出てくることも想像に難くない。
一方で、私は「制御の専門家」も増えてくると思う。Chat-GPTのプロンプトエンジニアリングのように、どのような操作をすれば自分たちの求めていた出力が得られるのかというのだけを追求する人たちである。これもこれで自然な流れであるように思う。それを科学というかは疑問が残るが、要求される「理解」のレベルが従来よりも格段に下がることは自明であるように思う。
では、「理解」とはどういうことだろうか?我々が「わかった!」という時はどんな時なのだろうか?これについては現段階で言語化できていないので今後さらに考察を深めていきたい。