「たまにはこんな夜もいいなあ」と呟く夜
先日、自主映画のクランクアップを迎えた。
もちろん映画をつくるのははじめてのことで、すでに自主制作の経験がある仲間2人に手取り足取り教えてもらいながら私は脚本を担当した。俳優さんは2人、ネットからの募集でオーディションとはいいがたい、なんともラフな面談をさせていただいて決めた。脚本をつくるのも、目の前で自分の作った物語が立ち上がっていく様子を見るのも初めての経験だった。私がひとり暗い自室でコソコソ書いていた物語が、昼間、それまで出会ったこともなかった人に憑依していく現場は、すこしだけこそばゆい気持ちにさせた。
今回のお題は5分のショートフィルム。時間におさめることにまず苦労した。最初から「5分用の脚本を」と息巻いていては絶対に手が止まると思い、バーっと書き出した脚本はおよそ15分尺。最初なので当然どのシーンも捨てがたく、制作のファーストステップは、作品の意図や世界観を失わず、どう削っていくかという問題に直面した。
結果、映画は「え、最初のセリフがそれ!?」と突っ込まずにはいられないような、突拍子もない一言から始まることになった。今思えば、それが逆にフックになっているかもしれない。鋭意編集中だ(私ではない、編集担当の人が。本当にありがとう…)。
さて、すべての撮影が終了した後、簡単な打ち上げを私の家で開くこととなった。スタッフは俳優陣を含め全部で6名。撮影後に近所のスーパーへみんなで出かけ、酒や菓子をものすごい勢いでカゴに入れていく。ある人はポテトチップスを、ある人はおつまみのタン塩を買い、私は白かりんとうを選んだ。大勢で宅飲みをしたことすらなかったので、つまみひとつとってもバリエーションの豊かさに驚いた。
スーパーでおよそ3,000円分。6人分の飲食費用としてはかわいい値段である。相変わらずの深刻な金欠状態ではあるが、食べたいものを食べたい人と食べられる、というのは大人の醍醐味のひとつかもしれないと思った。
昨夜、うちの居間の畳を数えてみた。ぜんぶで6枚。つまり6畳の狭いスペースに6名がぎゅうぎゅうになって集まったことになる。しかも私の家には作業用のデスクしかなく、ちゃぶ台やダイニングテーブルというものがない。なので畳の上にそのまま酒や菓子をおき、各々あぐらをかいたり体操座りをしながら床で食べた。
メンバーとは何を話したか……もうほとんど覚えていない。というのも途中からカードゲームをして遊んでいたのだ。トランプではなく、いわゆる「犯人探し」のような遊び。これが酔っ払い6人でやるとなかなかのカオスぶりで、多いに盛り上がった。
「酔っ払ってこれ(カードゲーム)すんのが一番楽しいのよ」
とその時言ったのは、アルコールが回って身振りがどんどん大きくなっていたスタッフのひとり。私も彼女も同じタイミングで会社を辞めており、今は絶賛無職を謳歌している仲だ。失業保険の給付は申請から3ヶ月かかるらしく、今はその合間にあるらしい。彼女もまた金欠で、「あ〜、100万円が道に落っこちてないかな」というのが彼女の口癖だ。彼女とはよく、いかに無職の懐がきつく、しかし気楽か、そして日本の未来がオワッているかを話す。数少ない、「共に怒れる」人だ。
そんな彼女が、カードゲームを3回ほどプレイし終えた後でぼそっとこう言った。
「たまにはこんな夜があっても、いいよなぁ」
と。
その一言で、彼女が普段どんな気持ちで夜を過ごし、何と戦っているのかを察した。私は何も言えなかった。誰も何も言えなかった。あえて聞き流していたのかもしれない。
最近、『ナミビアの砂漠』という映画を見た。21歳の躁鬱または境界性パーソナリティ障害を持つ女性が主人公の作品だ。
そこでこんなセリフが登場する。
「今後の目標は生存です」
日本は少子化と貧困でオワッていくから、その中で生きのびることしか眼中にないと。首がもげるほど頷いた。打ち上げの場で、別のスタッフと同じような話をした。「おばあちゃんになるまで生きたくないよね。数十年も生きたくない。40,50歳でいいかな」と。そのスタッフも、今は無職だ。
みんなが帰り、一気に静まり返った自室を見回しながら、彼女たちのことを思い浮かべた。その話をしているとき、彼女は遠いところを見ていた。
思えば俳優2人だって、今はまだアルバイトで生計を立てている駆け出しの役者だ。まともに会社員をしているのは、6人中1人しかいなかった。その人だって、いろんな不満やストレスを抱えながら、貴重な休日を返上してここへやってきたわけで。
打ち上げを開いたあの晩、とにかく生きることで精一杯な若者が私の部屋に集まっていたのだと思うと、親しみを込めて、ダサさと頼もしさで胸がいっぱいになる。これをモラトリアムと言われても構わない。