香りへの感情は、塗り重ねられないのかもしれない
街中でふと懐かしい香りが漂ってきて、当時の気候や一緒にいた人の顔まで急に思い出すことがある。けれども香りが運んでくる記憶の形はいつも曖昧で、手で触れようとするとたちまち煙のようにどこかへ消え去ってしまう。その儚さも含め、我々は香りという記憶を愛おしく思うのかもしれない。
はじめて行った海外の空港、母校の校舎、祖父母が住んでいた海辺の家。今でもすぐに嗅ぎ分けられる自信がある。そのことに少しだけ胸がぎゅっとなる。香りの記憶は、なぜかいつもちょっとだけ悲しいのだ。
少し前から、東京の街中にも金木犀の香りが漂いはじめた。都会はコンクリートに揉まれて少しだけ薄まっているけれど、このくらいがちょうどいい。あまりに強いと、悲しみが一層増す。
金木犀の香りが漂ってくると、弟が生まれた秋の朝を思い出す。空は高く、天井のほうを白い雲が薄く流れていた。寒くも暑くもない、けれどもどこか嬉しいような、悲しいような、泣きたくなるような朝だった。
長袖を着るようになった頃、いよいよ母が里に戻って出産準備をすることになり、私と弟は近くに住むいる祖父母にしばらく預けられることになった。私は当時小学2年生で、弟は幼稚園の年長。弟は、当時のことをよく覚えていないという。
血のつながりがある祖父母とはいえ、親ではない、ということをこの時はっきりと悟った。いつも優しかったはずの祖父が、宿題をするときだけ異様に厳しくなる。祖母のつくる昔ながらの手料理は小学校2年生の口に合わない。
早くうちに帰りたいのに、戻ってきた頃には知らない赤ちゃんがいる。親と離れて暮らしている状況も、自分の部屋で寝られない夜も、家に帰れば新しい家族が増えている事実も、ぜんぶストレスだった。
そんな祖父母の家から学校までの道すがら、金木犀があった。金木犀という名を知ったのもこの時だ。その木は手入れがされておらず、ぼんやりとした形のまま塀の外まで満ち満ちと飛び出していた。小さな花々はオレンジ色のスプレーを吹きかけたように道路を染めていた。人に踏まれて汁が出たのか、辺りは気分が悪くなるほど強烈な金木犀の香りが漂っていたのを鮮明に覚えている。心細くて、悲しい香りだった。
そんなさみしい香りのなかを割いて生まれた弟も、今年で18になる。
彼が生まれてからすぐ、幼心は一変してお世話を手伝うようになった。ミルクを飲ませたり一緒に遊んだりする行為が、実践版おままごとのようで楽しかったのだ。色白な弟は天使のようにかわいかった。
今や彼は背丈も伸びて、大きな体のなかに小さな宇宙を抱えるひとりの青年になった。あんなに白くて小さかった存在が、今は言葉を話し、毛を生やし、好き嫌いを言い、彼女をつくり、少々汚くなっていることにいつも驚く。まるで違う生物を見ているような気分になる。
彼も来年には実家を出て上京するという。そうなれば3人姉弟がすべて東京に集合することになる。上京したら、3人でドライブへ行ったり、たこ焼きパーティーをしようなどと今から計画しているところだ。
金木犀にまつわる幼少期の記憶はだいぶ薄まってきたけれど、空いたスペースに今度は弟が大人になってしまう切なさが入ってきてしまいそうだ。
帰省すれば家で暇そうに寝転がっていた弟が、もういなくなる。今はまだバカなことをするけれど、そのうち落ち着いてハメを外すこともなくなるのだろう。
いったいいつになれば、金木犀の香りを健やかに楽しむことができるのだろう。ひょっとすると香りの思い出は、ついてしまえばもう2度と塗り重ねることができないのかもしれない。