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無人レジのゆくえ

昨夜、ひさしぶりに100円ショップへ行った。
コーヒー豆を入れる瓶やドリッパーを買おうと思ったのだ。

昨今の深刻な物価高で、100円ショップもほとんど「(ほぼ)100円」になっていたらどうしようかとビクビクしながら行ったのだが、欲しかったものは無事にすべて100円で買うことができた。昔、フジテレビのバラエティ番組で100円雑貨に混じった高級品を見抜くコーナーがあったのだが(その名も「ほぼ100円ショップ」)、それから20年も経たないうちに現実が追いついてしまうとは。

そんなことはさておき、問題はレジである。

無人レジの波が、ついに100円ショップにまで押し寄せていた。とはいえ無人レジを使えるのはキャッシュレスのお客だけ。現金を利用する客はボタンを押して係員を呼べ、と書かれていた。私は現金だったので、たかだか500円程度のお会計にしかたなくボタンを押した。やってきた店員の面倒くさそうな冷たい手つきを見て、ボタンを押したことを申し訳なく感じてしまった。

店へやってきたのに、店員や係員と一度も接触することなく買い物をする。人と接触しようとするものなら、途端に怪訝な目をされる。そこへ強烈な違和感とさみしさを感じるのは私だけではないだろう。「どうぞ勝手に来て、目当てのものがあれば勝手にお会計してください」といわんばかりのシステム。これでは本当に人をころしかねないと、本気で思う。

以前行ったファミレスでも、家族づれが「子ども用の取り皿と、これとこれを分けて出していただけますか」と細かい注文をするのに卓上ボタンを押して店員を呼んでいた。しかし店員は「あ、それもこちらのタブレットからできるんで、ここからやってください」と、わざわざテーブルまでやってきたのに最後は雑にタブレットへ誘導する始末。アルバイトだとしても、そこまで楽をしたいのなら、なぜ接客業を選んだのだろう?と思う。

無人レジどころか、飲食店ではスマホのQRコードを読み取って注文、配膳は猫型ロボットに嘱託しているところまである。これでは調理すら人が介さずロボットが作っているかもしれない、と思うレベル。目の前に店員自体はいるのに、作っている人や働いている人の顔が見えないまま注文をとり、食事をして店を出ることの異様さ、気持ち悪さがどうしても拭えない。

ふらっと立ち寄ったチェーン店でこのようなサービスに相対すると、まるで自分が「餌を食べにきた動物」のような気分になる。客というか、そもそも人間としての尊厳がないがしろにされたような気分になるのだ。そのような全自動のお店において、客は人間ではなく単なる番号と化す。

最近、スーパーに行っても本当に楽しくない。
私がよく行く都心のスーパーだけの問題かもしれないが、いつ行っても野菜はしなびており、決して安くない。食材からのエネルギーや愛も全く感じられない。極め付けは最後の無人レジ。働く人も買う人も売り物もみな、義務感や疲労感を浴びている。店は全体的に無気力でくたびれているムード。食べる喜び、つくる楽しさを全く予感できない空間。こちらも、延命のためにスーパーへ行っているような気分になる。

で、さいていげん人間として扱われたい場合には、つまりは人が本来持っているあたたかさを享受するためには、ただそれだけのだに少し値の張る店に行かなければいけなくなる。結局はいつも、貧しい者から人としての関わりや尊厳が奪われていく。このままでは孤独死や自殺者はもっと増えてしまうだろう。

お金と時間のなさで、人の心が徐々に殺伐としていくのを感じる。人に冷たくできるサービスや仕組みが先にあると、どこまでも人間は残酷になれる。そしてそういうサービスは必ず、日頃から使う人ではなく、最初にサービスを考えたり作ったりした人の元へ大金が入る。

いったい、どうなっちゃうんだろうか。

無人レジが代表する、人の寂しさのゆくえを、真剣に憂慮している。

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差詰レオニー
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