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【2024年12月6日】有能でなくては、という呪い
2024/12/06
*有能でなくては、という呪い
最近気づいたことがある。私はどうも「有能にならなくてはダメだ」という恐ろしい呪いを自分にかけているらしい。もちろん他者に思っているのでなく、あくまで自分が自分に課していることだ。きっかけもなく、ふと気づいた。
幼い頃から、何をするにしても優秀でなくてはいけないという強迫観念がある。勉強をするなら頭の良い生徒でなければならず、スポーツは人並みよりできなければ皆んなの足手纏いになる。音楽も、やるなら綺麗に弾けないと音楽の意味がないと思っていた。
そうやって他者からの目線ばかり気にしているから、何をしても中途半端だったし安定的に下手くそだった。何にも秀でていない子どもが、自分で自分の居場所を見つけることはかなり難しい。だからなにかに秀でている「フリ」をして生きてきた。
本当は不器用だし、頭も賢いわけじゃないのに、人生のあらゆるタイミングで身のほど知らずの高い目標を設定したり、自分を追い込んだり、出来の悪い自分をいじめたりした。
社会的にフリーターと呼ばれるポジションにいながら、何を言っているんだ、と思われるかもしれない。今、げんに出来が悪いだろう、と。
そうなのだ。
これでも随分ましになったほうだ。呪いもだいぶ解けつつあるし、強い劣等感はほとんど消え失せた。昔の私であれば、大学まで出て定職につかないなど到底あり得なかっただろう。
けれどもたまに、いやけっこうな頻度で、強い揺り戻しがある。
美術モデルとして、売れっ子にならなくては。どこに行っても満足されるモデルにならなくちゃ。執筆業だって、せっかくフリーになったんだもの。はやく記事をバズらせたりして、売れっ子執筆家にならなくちゃ。そんな強迫観念がふと襲ってくる。
どこにいっても、何をしても、結局は無能な自分を許せずにいる。大人になっても、有能でなければ生きる価値がないんじゃないかと思うクセは抜けない。
そう追い込んでしまうのはおそらく、「有能でない」人なりの生き方を私が知らないからだ。なにをするにしても下手くそな人が、下手くそなまま、そこそこに、幸せに生きていける術を私は知らない。
社会は有能な人の物語や助言にあふれている。そしてしきりに努力することを求めてくる。より良く変わることを求められ、無能または低能はできるだけ有能に近づくことを勧められる。
でも本当は、出来の悪い自分のまま生きていきたい。場所を変えたり血の滲むような努力をしたりしてまで、有能である義務を自分に課したくない。
それなのに、この地獄から抜け出すのは難しい。なんだかんだ努力しているうち、それなりに達成感や満足感を覚える。広がった世界もたくさんある。有能になったときの快感がある。どうしても「出来の悪いままでいいや」と割り切れない。
そういえば、昨日の星野源オールナイトニッポンに寄せられた人生相談がよかった。自分は言われたことしかできない、と悩む新卒1年目のリスナーが、星野源に「社会人になって気をつけていること」を聞いていた。星野源はこう答えていた。
「社会人って、何? 幼稚園生にも『社会』はあるし、小学生にも『社会』はある。人は生まれながらにして皆『社会人』なのでは? 気をつけていることはない。社会人なんて、適当にあわせておけばいいんだよ」
肩の力が抜けるような思いだった。
有能の呪縛がほどかれるまで、まだまだ時間はかかりそうだ。
今日はそんなことを考えていた。
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