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台本にあって小説になさそうなもの(雑感)

例の如く、今月も光のスピードで終わっていく。1ヶ月間なにをしていたんだろうと思い、googleカレンダーを開いてみた。

自主制作の映画の脚本を書くこととなり、それでバタバタとしていた。なんせ初めての体験なので……。映画の細かい知識・お作法は全く持ち合わせてないし、小説の執筆も初心者だが、恥を忍んで初心者の雑感・所感(初感)を書いてみたいと思う。

小説を書き出してから台本の作業に取りかかってみると、役者という存在のなんと頼もしいことか。こちらが全てを書かなくてもいいのだ!

というのも小説は、登場人物の動きや感情をあるていど書き込まなければいけない。しかも言葉によって。すべて読まれることを前提に。

言葉はそもそも、なにかしら「ものを指定する」ものだ。だからある意味しかたのないことかもしれないが、小説というものが言葉のみで構成される以上、著者は本の中で起こるすべてを指定しなければいけない。感情、表情、動き……。それでいて余計な描写は省かねばならず、塩梅が難しい。たまに窮屈に思えるときがある。

その点、役者のいる劇というものは、多少こちら(台本)が言葉足らずであっても、なんとかしてくれる。そう書くと無責任に聞こえるかもしれないが……弁解すると、脚本ではすべてを指定せずとも役者という、生きた人間が放つ言葉にならない情報の力を借りることができるのだ。

映像における言葉は、物語の構成要素のひとつにすぎない。そもそも映像作品の場合はセリフで逐一説明するのが不粋であるから、言葉は最低限でよかったりもする。で、何に頼るかというと、やはり役者の眼差し、声色、動き、表情になってくる。生きた人間は、語らずとも何かをつたえることができる。それが普段、小説という言葉で書き尽くさねばならないものを扱う身にとってどれほど面白く、頼もしいことか……。当たり前に思えるかもしれないが、これはかなり新鮮な発見だった。

小説と違い、台本は言葉(ここではセリフ)だけで何かを決め切る必要がない。台本には、小説では生み出せない、深い余白をつくれる。

小説を書きながら感じていた非常のプレッシャーから、ここにきてようやく解放されたように感じる。何かにつけて自由の精神を求める今の私にとっては大変やりやすく、気持ちがいい。

……という、言葉の創作一年生らしい感想を記念に残しておく。

日常の会話劇だけど、いま、楽しみながらつくってます。できたらみんなにもお披露目したいな。

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差詰レオニー
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