【歴史トリビア】童謡唱歌をめぐって
皆さん、こんにちは! 在米25年目、ニューヨークはハーレム在住の指揮者、伊藤玲阿奈(れおな)です。
本日2月17日は、今でも日本人に歌い継がれる唱歌『故郷(ふるさと)』を作曲した岡野貞一(1878~1941)の誕生日でした。
鳥取の貧しい家庭に育った岡野は、青年時代にキリスト教の洗礼を受け、その教会でオルガンを習いながら音楽の素養を身に付けました。そして、同じく鳥取の出身で、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)の2代目校長だった村岡範為馳(むらおかはんいち・1853~1929)が故郷でひらいた講演会をきっかけに音楽の道を志し、東京音楽学校へ入学します。
その後、同校で声楽などを教えるかたわら、文部省(現・文部科学省)で教科書の編集委員としても活動。数多くの唱歌を作曲したのです。
なかでも、やはり編集委員として作詞を担当した国文学者・高野辰之(1876~1947)とのコンビは特に有名で、『故郷』のほか、『朧月夜(おぼろづきよ)』『紅葉(もみじ)』『春の小川』『春が来た』といった今でも歌い継がれる作品がそろっています。
さて、これらの作品は今でこそ教科書にも「作詞・高野辰之/作曲・岡野貞一」とクレジットされていますが、ひと昔前までクレジットが無く、たんに「文部省唱歌」とされていることが多かったのです。それはなぜでしょうか?
ここには、実は「唱歌」をめぐる歴史的な経緯があるのです。今日は、そんな日本音楽史のひとコマをご紹介します。
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「唱歌」という日本語はもともと雅楽で使われていた用語で、雅楽において器楽(楽器)のパートを声に出して練習するのを「ショーガ」といいました(これは現在でも受け継がれています)。
明治5(1872)年、明治新政府が欧米にならった新しい近代的な学校制度を作ることを宣言、これからの学校教育で教えられるべき科目を定めました。そのとき、アメリカの教育制度における Vocal Music にあたる科目名の訳として、日本古来の雅楽用語を援用して「唱歌」が誕生したのです。
つまり、「唱歌」とはそもそも音楽を学ぶ授業の教科名だったわけで、それが今の私たちが慣れ親しんでいる「音楽」という教科名に変更されたのは、昭和16(1941)年のことでした。
こうして誕生した唱歌の授業でしたが、時間が経つにつれて、その授業で歌われる曲についても「唱歌」と呼ぶ習慣が定着するようになりました。
したがって、「唱歌」には教科名をさす場合と、その教科書にのっている歌をさす場合の2つの意味があるということになります。「音楽」の授業になった現在では後者の意味でしか使われませんが。
さて、今でこそ学校で使われる教科書は、文科省の検定に合格した民間の出版社のものが使われます。教科書検定制度です。
しかし戦前は違いました。明治23年から36年までは同じように検定制度があり、文部省のお墨付きがあれば民間が参入ができたのですが、明治36年からは教科書はすべて国定にすべしと決められたのです。つまり、国(文部省)が作った教科書しか認めないということ。時代的にちょうど日露戦争が始まろうとしている頃で、おそらくは国民を国家主義的に統制する目的があったのでしょう。ただ、唱歌の教科書については例外として民間の教科書も認められたらしいです。
それでも、それはあくまで例外なので、手本となるような唱歌の国定教科書を文部省がみずから作らねばなりません。その編集委員を務めたのが岡野や高野だったわけです。
そして、国定ですから著作権はすべて国(文部省)が持つという建前になります。そこで編纂委員に対して高額な報酬を払って作詞作曲をしてもらい、そのかわり名前のクレジットは無しで(自分が作ったと口外してはならない)、「文部省唱歌」として発表したのです。
このような経緯があったので、作詞者作曲者が長らく不明だった唱歌もありますし、岡野や高野の業績が知られるようになったのも戦後になって研究が進んでからです。
ちなみに、よく「童謡唱歌」といいますが、「童謡」と「唱歌」には違いがあるのでしょうか?
重なる場合もあるにせよ、厳密にいうと、答えはYESです。
音楽史において童謡といえば、大正7(1918)年に鈴木三重吉(1882~1936)が『赤い鳥』という雑誌を刊行したことがきっかけに創作されていった子供向けの歌を指します。
先ほど述べたとおり、当時は国定教科書だったわけですが、ともすれば国家に都合がよいことを説教するような、堅苦しい内容になりがちでした。唱歌にしても「忠君愛国」のような内容が多くなります。また、歌詞にしても文語調で子供には分かりにくいものもあったのです。たとえば、『故郷』にしても小学生にはやや分かりにくいですね。冒頭が「ウサギ美味しい」と思っていた人もいました(笑)
いずれにしても、そのことを憂慮したのが鈴木です。あんなものでは子供たちの心は純粋に育たないと考え、もっと児童に寄り添った、分かりやすい口語による話や音楽を発表する場として雑誌『赤い鳥』を発刊したのです。
このような考えのもとに作られた子供向けの歌が「童謡」で、鈴木に賛同して広がっていった一連の創作の動きは、童謡運動とも言われます。お上を代表する立場にいる岡野や高野らの「唱歌」とは対極の、いわば民間による創作活動から生まれたのが「童謡」だったわけです。
この系譜に属する有名な作曲家をひとりあげるとすれば、中山晋平(1887~1952)でしょうか。
切ない歌詞とメロディーの『シャボン玉』、「コガネムシーは金持ちだー」の『黄金虫』、「しょ、しょ、しょーじょーじ」の『證誠寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)』といった童謡が知られますし、流行歌でも『ゴンドラの歌』などの傑作をのこしています。
政府の干渉が過ぎると社会の活力が減っていき、逆に放任が過ぎると弱肉強食になりやすく貧富の差が拡大――このような現代における社会主義と自由主義の対立にも読み替えられる、日本音楽史のひとコマでした。
皆さん、いかがだったでしょうか?
Ⓒ伊藤玲阿奈2022 本稿の無断転載や引用はお断りいたします
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執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者・文筆家。ジョージ・ワシントン大学国際関係学部を卒業後、指揮者になることを決意。ジュリアード音楽院・マネス音楽院の夜間課程にて学び、アーロン・コープランド音楽院(オーケストラ指揮科)修士課程卒業。ニューヨークを拠点に、カーネギーホールや国連協会後援による国際平和コンサートなど各地で活動。2014年「アメリカ賞」(プロオーケストラ指揮部門)受賞。武蔵野学院大学大学院客員准教授。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。