せめて僕は憶えていよう、圧倒的なこの無力を
その瞬間は企業説明会の帰りだった。
学校へ寄ろうと吉祥寺の中道通りを歩いていたとき、経験したことない揺れに見舞われた。体感した揺れの大きさは覚えていないが、頭上の電線が遊園地のアトラクションのように波打っている画は未だに鮮明なまま脳内にある。
2011年の3月11日、14時46分の記憶である。
月並みな表現だが「映画のような」その光景が落ち着いた後、学校へ向かった。構内にいた人、近隣の人達が学内で最も大きいホールの前に集まって繋がりにくくなった携帯電話と向き合っている。
友人同士でガラケーのワンセグで放送されているニュースやTwitterのタイムラインに流れる映像を見て震源地が東北沖であることを知り、今にも流されそうな仙台空港の様子を見て、大ごとであるのを察した。
公共交通機関は全て止まり、帰る術はない。
同じ状況にいた友人と自宅で過ごすことに不安を覚えた近隣の人たちで、一夜を過ごすことになった。
大学のキャリアセンターの男性職員がその場を仕切り、集まった人達をホールに入れて文字通りの緊急事態に焦ることなく対応してくれていた。彼も家族や身の回りの人の心配をしていて不安だったと思うが、その様子を見せずにその場に集まった100人以上の人々に安心を与えることに全力を注いでいた。今考えるととても凄いことだ。
娯楽が乏しい中でクリスティアーノロナウドのプレー集をスクリーンに流してくれていたのも憶えてる。
ホールの中、満足になるスペースがない中で配られた寝具を持って一夜を過ごした。そのとき、人生で初めて乾パンが配られた。家に蓄えてはいながらも「これ絶対に食べる機会ないだろ」と思っていた、“災害の代名詞”とも言える食料で空腹を解消していることに、強い非日常感を憶えた。
そこからの記憶は曖昧だ。翌朝帰宅し、数日間は津波によって消し去られた東北の街を画面越しに眺め、福島第一原発の状況についてのニュースを聞く。「自分だけは助かりたい」という一心で食料や水を買い占める人々に嫌気が指した。危機的状況に直面し不安が大きくなると、人間は利己的になるんだなと。
何もかもが非日常だった。日常が奪われたことによりそれまで何の気なく過ごしてきた日常の大切さを知った。
その日から、毎日を大切に生きようと思った。
不自由なく暮らせる状況にありがたみを感じようと。そして、この日から10年経った今、幸せなことに自分は有意義な日常を過ごすことが出来ている。
ただ、一方でこのあのときの感情は忘れてはいけないと思う。
自分はASIAN KUNG-FU GENERATIONが最も好きな音楽アーティストなのだが、彼らの作品で「3.11」をテーマに歌った曲があるのをご存知だろうか。
タイトルに入れたのは、彼らがこの震災の後に歌った「ひかり」という曲の中の一節である。
せめて僕は憶えていよう
東京の街で途方に暮れた日々を
せめて僕は憶えていよう
圧倒的なこの無力を
(ASIAN KUNG-FU GENERATION「ひかり」より)
gotchは3.11の後に憶えた感覚を忘れないよう書いたと聞いたが、自分はこの曲を聴くたびに、10年前のあの時期に感じたことを思い出す。
そして、今生きていることに感謝の念を覚える。
“生きている”ことの尊さを知ったあの日見た光景と感じたことは、絶対に忘れてはいけない。