hicardの組織の在り方を見直しています。
hicardではここ最近、組織の在り方を見直す、ということをしています。字面だけ見るとよくある話なのですが、僕たちがやろうとしていることはもう少し大胆に、モノづくりを生業とする法人の在り方を考え直すような試みです。具体的には、株式会社hicardという法人は残しながらもhicardという組織をいくつかの新しい法人に分解し、各法人の新しい関係の在り方を模索しようとしています。
hicard社員14名と業務委託パートナーを合わせた約20名に対し一定の帰属意識を形成しているhicardというアイデンティティは、関係者の数が増えるにつれてその「らしさ」を少しずつ拡張してきました。創業者3名のためのものでしかなかったhicard「らしさ」は、より柔軟性の高い「らしさ」に変容していったわけですが、それは当初の「らしさ」が希薄化した結果でもあります。これは、他の企業でも当たり前に起きていることです。
ここで問題となるのは、個人が集まって作る集団が持つ空気や文化としての「らしさ」は変わったとしても、個人の「らしさ」はそう簡単に変わらないということです。個人の「らしさ」が変わりにくいからこそ、組織拡大に伴い法人の「らしさ」が変わっていくわけですし、法人の「らしさ」が(中小規模に限りますが)変容しやすいからこそ、法人はある程度間口を広げて個人を採用できます。だからこそ、個人間で「らしさ」の乖離が多少あったとしても、一定の無理を許容すれば集団を形成することが可能です。そして、結果として画一的になった法人の「らしさ」に対して、個人はどこか自分の「らしさ」との共通項を探し、そこに愛着を感じます。本来相容れない個性を持つ人々が集団を形成するための口実として、そして何より市場経済上での「成長」のために、この柔軟性の高い法人の「らしさ」が機能してしまうのです。
このように、ビジネスのためであればある程度の不和を無視しながら集団を形成できてしまうということが、資本主義を前提とした市場経済が持つ引力の強さなわけですが、僕たちが生業にしているモノづくりという行為は、このような前提で作られた組織と相性が悪いと感じています。なぜなら、モノづくりにとって大切な要素は個人の持つ「らしさ」そのものであるにもかかわらず、市場経済が持つ力学は、個人の「らしさ」の尊重のためよりもまず経済的な成功のために働くからです。
昨今、多様性を謳う企業ももちろん増えてきていますが、その多くが、法人の「らしさ」に愛着を持たせ、組織拡大するための手段として、個人の「らしさ」を一定受け入れているに過ぎません。持続性・多様性を大切に、自分ごと化して考え、テクノロジーとデザインを愛し、ユーザーファーストで地域とグローバルに貢献する——。別に共感できないわけではないけど私「らしさ」ではない、そんな法人の「らしさ」は時に、ビジョン・ミッション・バリューの浸透という肯定的な行為を通して個人の「らしさ」を吸収していきます。そんな環境に身を晒し続けることで、人は個人の「らしさ」を活かせる場所を労働時間外に求めたりするわけですが、みんながみんなそこまでアクティブな強者ばかりではありません。
このやり方で企業は「成長」できるかもしれませんが、健全なモノづくり環境を維持することはどうしても難しいです。これはどちらが良い悪いという問題ではありませんし、資本主義はもちろん、既存の企業の在り方を非難したいわけでもありません。
ただ、これだけ多くの株式会社が市場経済上のゲームのための組織づくりをしているのであれば、少しぐらい、輝かしい未来のためではなく健やかな日常のための、「成長」ではなく「成熟」のための組織づくりを考えている株式会社があってもいいと思うのです。