AIがゴッホの絵を描くとき
生成AIの発達によって、AIがゴッホの絵を学習し筆致も含めてロボットを使って描きあげることは、1年後か5年後か判らないが、遠くない未来に実現する。
ゴッホの力強い筆の運びも、太い輪郭も、鮮やかな色彩も再現されて、東京タワーだろうが、東京ドームだろうが、何でも望むものを描きあげるだろう。それは美しい絵には違いない。
だけでも、それがどうした?
ゴッホの絵をAIが再現することは技術的には意味があるが、芸術としては、何の価値もないと断言できる。商品価値としても、ポスター程度の価値しかうまないだろう。
それはなぜか?
ストーリーがないからである。
ストーリーがなぜ芸術には必要なのだろうか。また芸術とはなんだろうか?
時には既製品のトイレにサインをして作品だと言い張る人が出てきてから、芸術とはなんぞやは、多くの人が悩むところである。
僕は、「作品を通して制作者等と鑑賞者が行うコミュニケーションが芸術の本質である。」と考えている。
例えば、曼荼羅は芸術かと問われると、私は芸術であると応える。仏教思想を伝えるために制作されたものであるが、そこにコミュニケーションが内在するからである。
それは空海が仏典では伝わらないことを伝えようとした仏教の真理であったり、制作者やそれを受け継いだ人の想いを感じることができるからである。
埴輪も芸術であるし、誰かが収集したマッチ箱のコレクションも便所の落書きも僕は全て芸術であると考える。
なぜなら、そこに伝えたいという想いや、伝えたいストーリー(コンセプト)があればそこにコミュニケーションは存在し得るからである。
ゴッホの絵には絵そのものに描かれた題材に留まらず、彼の人生がそこに付随して語られることになる。
売れない絵
アルル地方、プロヴァンス地方
ゴーギャンとの関係
耳切り事件
弟との関係
ミレーへの憧憬
浮世絵への関心
精神病院
自殺等である。
すなわち、描かれた絵そのものを超えて伝わるストーリーがあるかということである。
人々はただ絵を見て感動するのではない。絵を通して観たゴッホの人生に感動するのである。ゴッホの人生がその筆致や題材と共鳴し、絵の前の僕らに語り掛けてくるかのような錯覚こそが、芸術である。
絵が絵を超えた時にそれは芸術へと昇華する。
AIが描いたゴッホにはそれがない。私はストーリーから切り離された絵画が市場で二束三文で売られるのを見てきた。
絵の技術だけ見れば、良い絵もなかにはあった。
誰が描いたか。どんな想いで描いたか。誰が保有していたか。どんな時代背景だったか。これらのストーリーがない絵、それはただの絵なのである。
すなわち、芸術を次世代に残そうとした場合、作品単体を残すだけでは不十分であるということである。
これは絵画とかいわゆる美術品と認識されているものに留まらない。
漫画、アニメ、映画、古文書など諸々全ての文化的な背景を持つ作品は、作品そのものの保管と同じぐらいに、その付随するストーリーを保持し続けることは重要なのである。
なので、私はmarumadoを作ったのだ