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ダヴィンチも僕らも退屈している


レオナルド・ダヴィンチの手記 序文

高校生の時に『レオナルド・ダヴィンチの手記』を読んでもっとも驚いた一節がある。それは冒頭だ、この手記はこう始まる。

「私よりさきに生をうけた人々があらゆる有益で必須な主題を自分のものとしてとってしまったから、私は非常に有益な、または面白い題材を選べないのを知っている」
この後に、売れ残りのような題材をかき集めて、そこに自らの成果を載せると続くのだ。

後半を読むと彼に持っていたイメージとそんなに乖離はないのだが、前半の自分は残飯で遊ぶとも言わんげな現状認識は驚いてしまう。現時点で人類は多くのことをやり尽くし知らないことなんか、あるのだろうかといわんばかりなのだ。

ダヴィンチ以降の蒸気機関や情報技術の革新を見ると、後出しじゃんけんなので、まったく公平ではないのだけれど、ダヴィンチわかってないなとニヤリとしてしまった。

僕は退屈していた

僕がこの一節が印象深かったのは、ちょうど飽き飽きしていたからだ。何かあらゆることを考えてみても、ドアノブには先人の手垢がべったりついているように勘違いしていた時期だったからだ。

「特に受験勉強なんぞは、世間で答えが判り切っていることを、したり顔で僕も知ってますよと示したところで何になるんだろうか。犬に芸を教えるのと大して変わらない」などと生意気に思って、何もする気がなくなって退屈していた。

そこでダヴィンチも退屈と言わんばかりの言葉が序文で出てきたので驚いたのだ。ええ?あなた、あんなに自由に見えるのにと。頭脳も僕なんかより何十倍も賢そうだし、未来から見ると周囲はブルーオーシャンでいっぱい遊べるじゃないかと。

その時から大分時間がたつと、はっきりと理解したことがある。それはその分野の最先端と言われる人ほど、自らのまだ判らないこと、すなわち人類が未到達の領域をはっきりと見据えていることだ。そして、その領域を研究領域として切り開くことに嬉々としているのだ。それは、門外漢や素人からすると、まるで海岸に砂粒を一つ足すようなことのように思えても、その人は「知らないこと」の面白味を感じており、退屈する暇などないのだ。

僕はドアを開けて開けて、誰も開けていないドアに辿り着くまでの努力を回避する言い訳に退屈と言っていたのだ。

退屈は外から来るのではなく、心の内から来る。

ダヴィンチの手記を最後まで読むと判る。退屈と嘯きながら、彼は舌を出して自らの好奇心のままに自由に知で遊びまわっている。

退屈と言ってふて寝していた僕とは、やっぱり役者が何重にも違うのだ。

情報に溺れる僕はさらに退屈している

20年ほど前にインターネットが出てきてまず最初に見ようと試みたのは海外のアダルトサイトだ。ダイヤルアップだったので頭先から首筋が出るまででタイムアップしてしまい嘆息をこぼしていた。

スマホなんて20年前はなかった。恋人と連絡するためにスパイのように数字を羅列していたなんて言うと、若い人たちはエイプリルフールかと思うだろう。

20年前はダイヤルアップの通信速度と戦っていたが、いまは画像どころか動画も好きなところで見られる。別にアダルトサイトに限らないのだが、情報は非常に身近で溢れている。親指を動かせば、インド人が川に落ちた犬を助ける映像なんぞが出てくる。タイムラインは色々な人が身近な情報や意見をほぼ自由にたれ流す。

知識も得ることが容易である。
長篠の合戦の武田軍と織田・徳川連合軍の兵数なんかもあっという間に出てくる。20年前は図書館に赴き書籍を手に取ってというプロセスがスッパリとなくなった。信長公記を読まなくても信長の事績については概略は判る。

氷水をバケツで被ったり、ピンポンパンのような判りやすいダンスを、『〇〇してみた』と称してコピペする。ミームと呼ばれるコピペを嬉しそうに共有し、指の動き一つで消費する。

ふと気が付くと、時間だけが浪費されている。寝る時間も短くなり、防水だからと風呂に持ち込んで、食事中も見続けた4インチの画面。

翌日になると、昨日は何をしていたのだったかと、4インチの画面に目を落とす。

未知の情報を浴びるほど見ているはずなのに、僕は相変わらず退屈している。何も覚えてない。僕は意味のない情報を意味なく消費し毎日を意味なくしている。

便利になっても相変わらず、退屈をしているのだ。
なぜ、退屈なのか?
退屈なのは僕だけなのか?
便利なのにね。

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