集める人と捨てられる物語
美術品の買取事業をしていた時に、お客様のコレクションを観て感じたことがある。人の好奇心には限界がないのだということである。そして、なんで惹かれるのかは説明できないということである。
人が惹かれるのは美術品だけではない。
美術商としての取引においては美術マーケットにおける価値に左右されるため買取できる美術品と定義できるものは限定的になってしまう。
けれども、これは確かに面白いなというコレクションはたくさんあった。
こけし、マッチ箱、ガラス細工、鈴、新聞、雑誌、牛乳瓶の蓋、鞄、靴などなど。ゲーム基盤を集める人もいるし、世の中に存在する全ての物は人の好奇心の対象になり得るコレクションする対象になる。
家族から白い目で見られながらも、集めることを止めることはできない。集めた本人に集めた理由を聞けることは数少なかったけど印象深い。
コレクションを手放す人は品物に対して熱く語るというよりは、入手した経緯・ストーリーを語る時に一番熱量がこもっている気がした。私は延々と彼らの話を聞く。なぜこの品に出会ったのか、この品にどのようなストーリーがあるのか。私はそれらの話は、その品、そのものよりも価値があるように感じた。彼らの人生の足跡がコレクションに刻まれていて、品とそれらのストーリーは、彼らのコレクションである内には不可分であるかのようだ。
だけども、品は、コレクターの手を離れた瞬間、ストーリーは切り落とされ、マーケット価格のみで評価される品となる。
牛乳瓶の蓋はゴミになる。
無名の美術家の絵は、額縁の値段。
無銘の掛け軸は、30本で1,000円。
僕はこれがもったいなくて仕方なかった。知られることのないストーリーが知られれば、そのストーリーに惹かれる人がどこかにいるのじゃないかと思ったからだ。
牛乳瓶の蓋が好きな人
美術家の描いた風景に思い入れがある人
掛け軸を書いた和尚が先祖の知り合いだった人
なんでも良いのだけども、付随する情報が物そのものを知ってもらうきっかけを増やしたり、物そのものの価値を増すようなことができないかと。
物に付随する情報、物語、ストーリーを繋ぎ合わせることで新しい発見ができるのではないか。光を浴びづらい情報や作品、物を見つける一助にならないか。自分の好きなモノを延々と追い求めることができないか。
と考えて
marumadoができた。