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300万ページの金太郎飴

google検索で僕らの生活は便利になったのは間違いない。
検索すれば、大概の情報は手に入るのだ。

ラーメン屋の評価、混雑時間、営業時間、場所、値段
桶狭間の戦いの織田軍と今川軍の兵数、合戦場所。

知りたいと思った瞬間にそれは知ったになる。

でも、退屈なのはなぜなのか。
当たり前になったがゆえのマンネリなのか。

実際、一人辺りの検索件数は減っているようだ。googleは2016年以降検索件数を公表していない。では人々は知りたいと思わなくなったのだろうか。

なぜ、人々は検索をあまりしなくなったのか。それは実際に検索をしてみれば判る。例えば、『草間彌生』と入力してみよう。

ページヒット数は約3百万件。上位には草間彌生の美術館やwikipedeiaが並ぶ。そして1ページ目の下位はどのような情報が掲示されるか。

美術商のブログページである。いわゆる検索順位をあげるために、ページに紐づけをされたブログページが上位に出てくる。ブログの内容は主にwikipediaの内容に基づいて作成された記事が大部分で、ほぼ同じ内容が続く。

草間彌生は素晴らしいアーティストで作品だけでなく、その人生も豊かなストーリーに彩られている。だけども、googleによるとその一面だけがすっぱりと切り取られるのだ。ここでは、その作品が高く取引される側面だけが優先して表示されていることになる。
なぜなら、それが多くの人が望むものだから同じような記事が金太郎飴のように粗製されるのだ。
すなわち、僕らが見る情報は、みんなが見たいであろうマジョリティの嗜好性に多かれ少なかれ左右される。

そして、googleがつまらないもう一つの理由は、そもそも『草間彌生』自体を知らない場合に、僕らはどうやって『草間彌生』を知るのかということである。

すなわち、僕らがgoogleで知ることができる情報は、自らが知りたいと自覚しておりインプットできる情報に限定できるということである。

草間彌生が持つ豊かな背景・物語は多くの人が見たいであろう側面で切り取られる。知らない人は知らないままだ。

SNSという同調圧力装置

もっと多様な情報に触れたい層は、ではどこに行ったのか。一つはSNSである。SNSは即時的な流行を知るにはいい場所だと考えられている。なので、インスタグラムにしてもTwitterにしても、ユーザーの約6割は、投稿をせず見るだけである。
彼らはSNSを投稿などの自己表現する場ではなく、情報を収集する場としてとらえているという事だ。

SNSは確かに『いま』起きていることを知るには良い。
流行りのパンケーキ、起きている事件、話題。これら従来はメディアが広いあげてくれないと周知されなかった情報が即時に拡散される。

これらの情報は一見多様で、時代そのもののように感じられる。だが、同じくユーザーは自らコントロールできない要素によって見る情報は選択される。
即時性、大衆性、履歴、属性といった変数によって設定されたアルゴリズムによってユーザーの見る情報は偏っていくのである。

例えば、20歳代男性であれば、出会い系アプリの広告や、脱毛サロンの広告が頻繁に出るし、紛争地域のニュースで紛争の片方に肩入れする(イイね)をすると、そちら側の主張が延々と出てくる。

そして多くのニュースは使い捨てのようにどんどん流れていく。コメント欄等は知らない誰かの感情の吐き捨て場のようになり、アルゴリズムで閉鎖空間となったSNSの偏った意見が大多数の意見を代表するかのように扱われ流れ流されていく。

すなわち、僕らの好奇心は非常に限定された範囲をふらふらと彷徨うはめになるわけだ。

なんだかムシャクシャするので


僕はこんな状態になぜだか判らないけど、自分がムシャクシャしていることに気が付いた。

なんだか、本来はもっと無邪気に知りたいことを探して回っていた僕の好奇心が檻に入れられてしまっているような気がしたからかもしれない。

日が当たりづらい情報があることに気が付いたからかもしれない。

知るべき何かがあるのかもしれない。

ただ単に退屈だったのかもしれない。

でもムシャクシャとしたのだ。

じゃあ、お前は何すんねん!と思われるかもしれない。

そこで僕が創ろうしているアンビエントな検索について次回は触れたい。

目指したのは、発見がある検索、そして多様性のある検索だ。




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