「バルス」のない文明でラピュタを観るということ
勧善懲悪のしっかりした映画『ドラえもん』シリーズに感化され、宝島、ハックルベリー・フィンの冒険、ロビンソン・クルーソー、をはじめ、海底二万マイル、ガリバー旅行記、十五少年漂流記、トム・ソーヤーの冒険はもちろん、ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち、おろしや国酔夢譚、エンデュアランス号漂流、二年間の休暇に至るまで、世界中の名作とされる少年少女の冒険譚を小学生時代に読破した自分にとって、『天空の城ラピュタ』はたいへん馴染みやすかった。
ひとことで言うのも野暮な気がする。が、この映画のストーリー上の基軸は、上に挙げたような「冒険活劇のお手本」を踏襲した「典型的なボーイミーツガール物語」である。
パズーの人間性について
ヒューマンドラマや人間の機微を描くにあたり、物語の冒頭に生活や日常のシーンを挿入することはよくある。登場人物の人間味を捉え、のちの展開に生かすためのこの手法は、下手に使うと単調な描写になりがちで、退屈することがままある。
しかし、ラピュタで冒頭から展開されるのは、「飛行船に海賊が来襲する」という、すでにクライマックス感のあるスリリングな場面である。そういう点では、物語の“つかみ”はバッチリだ。こうしたスペクタクルの連続で物語は進んでいくのだが、ここで重要なのは、登場人物が徹頭徹尾魅力的に描写されていることだ。いい映画の絶対条件である。
序盤にはパズーの生活が描かれる。街のひとに「めずらしく残業かい?」と訊かれ「うん、今日は久しぶりに忙しいんだ」と答えるパズーは、たったこれだけの会話で「周りから働き者として一目置かれている元気な少年」という情報量の多い印象をくれる。
そうかと思えば、そのすぐあとに鉱夫の「銀どころかスズさえねえ」、また親方の「残業はナシだ」という台詞から、観ている者は、炭鉱夫たちの生活が決して順風なものではないことに気づかされる。のちにムスカから金貨を受け取ったパズーが、帰路の途中で様々な感情に動かされるシーン。シータの真意が解らない閉塞感、シータを守れなかった悔しさ、そんな気持ちに任せて手に握る金貨を一度は振りあげても、結局は捨てられなかった描写は、パズーの生活に金銭的な余裕がなかったことを示す骨頂だろう。
パズーの言動に鬱屈した感情や閉塞的な表現こそ見られないが、僕らはパズーの生活の背景にある、いつまで続くのかわからないその日稼ぎの生活を知ることで、まっすぐで気丈な少年のどうしようもない不安な現実に身につまされることになるのだ。
君が空から降りてきたとき、ドキドキしたんだ。きっと、素敵なことが始まったんだって。
これは、のちにパズーがシータに告白した率直で素直な予感である。いまの現実じゃない素敵ななにかを期待する気持ちに、パズーの生活を知る僕らは共感せずにはいられない。それはそして、これから始まる冒険活劇に心を躍らせる僕らの観客としての気持ちとも、同時に共鳴しているのである。
そんな貧乏少年パズーが、豪放磊落なドーラ一味とともにシータのもとへ行き、勇気でもってシータを救うことになる。そうやってパズーを取り巻く金銭事情と、お金じゃ買えない勇気に気づくとき、物語は一層の真味になるのだ。
シータの描写にみる真の魅力について
そして、シータである。
立場上ヒロインの位置にあるシータは、育ちのよさを感じさせながらも非常に男らしい。ムスカの後頭部を背後から瓶で殴ったり、軍兵に捕まったときは自分の首を絞める男の腕に噛みついたり、なにより、「おまえは女の子だよ」と退くことを勧めるドーラにたいし「あら、おばさまも女よ。それにわたし、山育ちで目はいいの」と度胸を示すあたりは痛快である。「やんちゃ」とか「活発」という表現には似合わないが、やるときはやる女なのである。汚い台所仕事に腕まくりをして気合いを入れるシーンなども、とても心強く描かれている。
当然、シータは心優しい女の子である。序盤のワンポイントとなっているパズーの石頭について、パズー本人は「僕の頭は親方のゲンコツより硬いんだ」と語り、ムスカも「あの石頭は私のより頑丈だよ」と評している。そんななか、牢に入れられたパズーが開放され、シータと再会するシーンで、言葉のうえこそパズーを慮って「ラピュタのことは忘れて」と突き放すが、シータはパズーの後頭部にそっと手をまわしている。パズーの無鉄砲な度胸を知っているからこそ、彼の頭の怪我を心配するこの場面のシータは、まぎれないヒロインである。
ドーラの思いやりについて
シータを語るうえで欠かせないのは、海賊ドーラだ。
シータのことを「あたしの若いころにそっくりだよ」と評し、手下たちに「え、ママのようになるの、あの子?」「信じられるか? あの子がママみたいになるんだぞ」と呈されたドーラだが、映画において母性を背負いながらも、「やるときはやる」「ひとを思いやる」ドーラは、間違いなくシータと似ている。船長室のシーンでは、若かりし日のドーラの勇姿が飾られているが、その姿はシータそのものである。
いま思い返せば、冒頭で飛行船の窓から逃げ出したシータを「はやく捕まえるんだよ!」「あの石だ!」と追いもとめるシーンで、シータの命を奪ってもかまわないと思っている悪役として見てしまっていた。しかし、飛行石があれば落下しても浮遊することを知っていたドーラは、宝石目当てではあるものの最初からシータの命は保証していたとも考えられる。根っからの悪者ではなかったことに、あとから気づかされるのだ。
壮大な物欲と堅牢な身体を持つドーラは、劇中の母性を司る点においてパズーとシータにたいする“大人”である。母親のようなドーラは、そしてシータを抱きしめ「かわいそうに。髪の毛を切られるほうがよっぽどつらいさ」と思いやるのだ。
余白と行間に読むラピュタ
建築家・安藤忠雄は「空白部分にぶち当たると、ひとは使いかたを考える。便利すぎるとひとは考えなくなる」という考えから、自身の手がけた建築にわざと利便性を欠いたり、なにに使うのかを考える必要のある空間を残している。そこに直面したひとは「ここをどうやって使おうか」と考える。ラピュタもまた、安藤建築と同様に空白の多い映画だった。考える隙間が残されているからこそ、そこを考える我々が、物語を楽しめるのだ。
すべてを説明的に書いてしまうと、きっと我々はなにも考えないのだろう。そこにつけいる宮崎駿の台詞に、観る者はハッと気づきを得るのだろう。
ムスカは悪なのか
ところで、ムスカの考えは本当に間違っているのだろうか?
いまは、ラピュタがなぜ亡びたのか、わたしよくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春をうたおう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。
銃を向けるムスカにシータは訴える。現代に生きる我々は、すでに地上の多くが舗装され、アスファルトの上で生活を営んでいる。「土から離れ」た毎日を生きている 。そして、未開拓の領域にも今後は科学の手が入るだろう。欧州諸国によるアメリカの植民地化や、日本における明治維新のように、高度な文明は発展途上にある文明を簡単に踏みつぶして覆い隠してしまう。この流れは進歩とともに加速することは必至である。
ラピュタは亡びぬ、何度でもよみがえるさ。ラピュタの力こそ人類の夢だからだ。
大人になってしまった僕は、しかし、ムスカの言葉を否定することができなかった。ムスカの主張も、僕らにとっては矛盾しない事実だからだ。ロボットや宇宙をめぐる技術は今後めざましい発展を遂げるだろうし、それはラピュタの文明に近づくことと同義である。未来、それはまぎれない、人類が夢みた世界である。
ラピュタを観るということ
この映画が公開された1986年は、戦後40年を過ぎている。冷戦や、各地で起こる紛争の一方で、バブル期を迎えた日本では、生活は大きく変化しはじめていたはずだ。『天空の城ラピュタ』は、戦争を忘れかけた日本人に向けた宮崎駿のメッセージかもしれない。戦争、環境破壊、文明が孕む負の側面から目をそむけても、地球の文明に「バルス」は存在しないのだ。
いつ来るかもわからない文明の終焉、それこそが『天空の城ラピュタ』で描かれていた気がした。我々は、日進月歩の毎日でどう生きるべきかという極めて大きなテーマを、ラピュタをとおして考える。地球に文明を築いた人類が、それでもいつかは本当に文明を終わらせなければいけない日が、来るかもしれないのだから。「バルス」のない文明でラピュタを観るということは、そういうことなんだと思う。
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