“あなたを守る”ってなんだろう? 『カランコエの花』を観て沁みた感情の感覚
ある高校の2年生のクラスでは、この日、唐突に「LGBTについて」の授業が始まった。しかし、他のクラスではその授業は行われておらず、なぜこのクラスだけ?という思いが、生徒たちの好奇心に火をつける。
「うちのクラスにLGBTの人がいるんじゃないか?」
生徒たちの日常は、まるで犯人探しのように波紋が広がるなか、年頃ならではの心の葛藤が起こした行動とは…。
ずっと気になってた映画、観ることができて幸運だった。いままで見たどのLGBT映画よりも考える時間が濃くて、書き残しておきたい感傷にかられるいい映画だった。
ブームと捉えるにはやや軽率なほど、「LGBT」というのはもはや映画ジャンルの一角である。しかし、『カランコエの花』はその流れを汲みながらも、現実や現状をしっかりと見据えたうえで、天与とも言える洞察眼で本質を射抜き、かつ悲恋の青春物語として表現している。
“無自覚な善意”の失敗 -花絵の場合-
結論から言うと、この映画は小牧桜という一人のLGBTの生徒を教室から追い出してしまう。その発端には、まず養護教諭である小嶋花絵の授業がある。
「ひとを好きになるのは感情である」「恋に性別は関係ない」、花絵の説いた内容は間違っておらず、むしろ自明の理に近い。もちろん、物語のなかに展開を起こすきっかけとして作用しているが、倫理的に考えたらこの行動は桜を傷つけた「失敗」である。
確かに、恋愛は感情に引き起こされるものであり、そこに性別は関係ない。花絵の言ったことは、繰り返すが、間違っていない。しかし、不正解なのだ。自明な事実を、ただ生徒に伝えることをもって「教え」とするのは、あまりにも恣意的であり、自己満足だ。花絵はそこに気づけていない。
恋愛に性別が関係ないのは事実だ。しかし、だからこそ困っているひとがいて、その困難を、暗い道のりを、少しでも照らすのが「教え」である。実際に社会で求められている手立てや支援は、そういうものである。
花絵は“踏み外して”しまった
映画のラストにあたる「7月1日 金曜日」のシーン。時系列を前後し、保健室で桜が花絵に恋の話をしてる。映像はエンドロールを映し、好きなひとができた嬉しさと喜びでいっぱいの桜の声と、花絵の相づちだけが聴こえてくる。
「その子、いっつもニコニコしてて」
「うん」
「一緒にいると私もすごく笑顔になれるんですよね」
「ふうん」
「一緒に帰ったりするときも、すっごくドキドキするんですけど、なんか超幸せな時間で…」
女同士で行われた恋の内緒話である。このとき花絵は、しっかりと桜に寄り添っている。桜の足許を照らし、導いている。
「また話しにきてもいいですか?」という桜に「いつでもおいで」とこたえた花絵は、しかし、LGBTの特別授業という選択でもって桜を追い詰めてしまうのだ。それは、ほかならぬ花絵が「恋愛に性別は関係ない」と“思っていない”ことを示している。少なくともLGBTにたいして言葉のうえで理解をしているが、実践的な経験としてはまだ実感がないといったところだろう。
エンドロールの桜の話は、LGBTという悩みはほとんど見受けられず、むしろ楽しい恋の予感であふれている。花絵のLGBTにたいする理解は世間一般のそれである。無知より近いが、当事より遠い。保健室で話したように、自然体で素直に受けとめればよかったものを、「特異なものに出会った」という異質意識の強さゆえに、履き違えた責任感で桜という個人の話を問題化してしまった。
“無自覚な善意”の失敗 -月乃の場合-
主人公・月乃の漕ぐ自転車に二人乗りして、夕日を背景に帰り道を行くシーンがある。月乃は、すでに友人の沙奈から、桜が噂の生徒であると知らされている。互いを意識しながら、引き寄せられるように体がくっつき、背中にもたれる桜にぎこちなく答える月乃は、桜の両手が腰にまわされたときには、もうなにもいうことができないでいた。
青春の美しさそのものを引きのカットで捉えた完璧な映像は、桜のまぎれない愛の告白だった。
「あのね…本当はこんなかたちで言いたくなかったんだけど…、つきちゃんにはちゃんと理解してほしかったから。」
続くバス停の場面になおも無反応な月乃を見て、桜は勇気をだす。桜はきっと、「月乃はすでに知っている」と解っていたのだろう。だからこそ、上の台詞でもって自分の尊厳のすべてをかけた告白を決心したのだ。
しかし、言葉が出てこない桜に月乃が見せた配慮は、「どうしたの、なんかあった?」だった。月乃は当然、親友を想う自分の気持ちをすべてかけて返さなければならなかった。この選択も、花絵同様の「失敗」である。
桜は「ううん、いいや」といって一人でバスに乗り込む。座席で涙を流す桜を、直後、カメラが捉える。そこに映る少女の孤独、失恋、絶望。悲しみを一身に背負った桜に襲いかかるものは相当重たかったはずだ。
月乃は、もちろん桜を気遣った。親友を傷つけまいと精一杯の答えをふりしぼった。しかし、それが桜の胸に届くことはなかった。
桜を守れなかった月乃
「小牧桜はレズビアン」
登校した生徒たちを迎えた黒板に大きく書かれたその言葉に、例の授業以降「キモい」「ヤバい」などの興奮があったクラスにもにわかに緊張感が漂う。
それを見た月乃は「違うよ、桜は違うよ。….桜はレズビアンじゃない!」
繰り返すが、月乃は本当に、桜を守りたかったのだ。自ら黒板消しを手に取ったのもその証拠である。必死に黒板を消す月乃を見つめる桜は、しかし、悲痛な顔で教室を飛び出す。
親友たちが追いかける。月乃も黒板消しを途中で放り投げてあとを追う。「だれも気にしてないよ」「大丈夫」、親友の気遣いに、桜はこう言い放つ。
なんでかまうの! ……ごめん、ごめんね。あれ、黒板に書いたの、私なんだ。
思うに桜は、月乃に向き合って欲しかった一心しかなかったはずである。しかし、尊厳を投げうった覚悟で臨んだバス停での告白はかわされてしまったため、口にできなかったカミングアウトを全生徒の前にさらけ出して、二度目の「告白」に打って出たのだ。
桜はレズビアンじゃない!
「レズビアンであることは異質なことだ」という、クラス内に当初から蔓延していた認知を否定しなかった月乃の懸命な擁護は、むしろその論調を強固なものにし、桜を追いやった。月乃は徹頭徹尾、桜を想って行動している。それが、桜からすべての選択肢を潰し、学校への道を閉ざしたのだ。また、桜のいちばん大切な一ノ瀬月乃の笑顔を、ほかならぬ自分が奪ったことも、桜自身にとって重大な自責であったろう。
あなたを守る、とは一体?
恋をして、胸がいっぱいになって、先生に楽しそうに打ち明ける桜は、どこにでもいる女子高生だ。みんなのなかの一人であり、尊重されるべきいち個人である。それなのに、花絵の授業で「LGBT」という枠組みにトリミングされ、その影響で月乃にもアンバランスなアプローチしかできずに、恋路がふさがれてしまった。
花絵の目的であったLGBTの啓蒙を、桜は必要としていなかった。桜に必要だったのは、おそらく、好きなひとと過ごす幸せの時間や、つくったクッキーを美味しそうに食べてくれたり、LとRを間違えるところに可愛らしさを感じたりする、逆行することなく明るい方向へ向かって毎日を生きる期待感や活力であったはずだ。自分の恋心を、あたりまえに応援する友人であり、向き合ってくれる友人であったはずだ。
もちろん、一ノ瀬月乃も普通の高校生である。人間ひとりが尊厳をかけて臨んだ二度の告白を受けとめるには、幼すぎたかもしれない。それでも、桜のいない教室で、桜を守りたかった一心で顔をゆがめた月乃が握りしめた赤いカランコエのシュシュは、月乃をどう動かすのだろう。
ただ、あなたを守りたかった。
花絵も月乃も、桜を守りたかった。その気持ちに嘘はない。あなたならどうした?という問いかけや、我々の生活でよくわからないまま答えを出し、よくわからないまま間違っていくすべてのことについて、切なさが沁み入る懐かしい思い出もある。心地よくはない、むしろ胸がチクチクする感覚に近い。
40分という時間尺には、十分すぎるほどの余白があったにも関わらず、ぎっしりと詰まった濃密な感情も矛盾せず同居している。それは、おそらく僕がまだLGBTについて考えなくてはいけない証明なんだろうな。