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生まれて初めてトトロを観たらサツキに感情移入しすぎたんですけど

スタジオジブリ作品を観たことがない。

これは、自分の人生で数ある大きなコンプレックスのひとつだった。幼少期に意識的にジブリ作品を毛嫌いしていたわけでもないし、両親から「ジブリ映画なんて観なくてもいい」と教育されたわけでもなかった。ただなんとなく「ふれる機会がなかった」だけだ。とはいえ、長いものに巻かれなかった自分は、いまでもジブリと聞くと少し気後れした気分になる。

そんな僕なんだが、意を決してTSUTAYAで『となりのトトロ』を借りてきた。ドラえもんこんなに好きなんだから、トトロも好きになれるだろう。そんなあまい考えも片隅にはあったし、周囲から「ジブリ入門映画」として真っ先に挙がったのもトトロだった。

さて。

映画を観終えた実直な感想は「物語としてあまりにも粗雑」だった。ポイントはいくつもあるのだが、例えば「描写したのに機能しないまっくろくろすけの存在」「明かされないお母さんの病名」「草壁家がボロ屋に引っ越した理由」「昭和30年代に和洋式の家屋はボロ屋とはいえ相当お洒落なはずだがまったくふれない娘2人」「険悪な仲だったカンタをいつの間にかカンちゃんと呼ぶサツキ」「大学の非常勤講師ながら2人の娘をもつお父さんの謎の経済力」なにより「トトロって、けっきょく何者なのか問題」など、ファンタジーで済ませるにはあまりに作りが粗く、回収されない挿話の配置が、物語を必要以上に複雑にしているように見えた。

しかし、だからといって物語が粗悪であるとは思わなかった。

ここが不思議なのだ。文脈を読みたがる癖のある僕が、ここまで振り回されても、それでもきちんとストーリーにはしっかりした溜桶が用意されている。子どものときならまだしも、大人になってから親近感を覚えるような作品ではないはずなのに。その不可思議さから来る自分の思考のカオスな部分の根源は、おそらくは物語におけるサツキの存在だ。

妹のメイは、わがままで我慢知らずである。とにかく待つことができない。お母さんの退院もそうだし、お父さんにお弁当をねだるシーンや、サツキの小学校の授業に参加する場面など、その子どもらしい自分の希望を躊躇なく口にする。おばけに対し「メイ、怖くないもん!」と何度も主張する強がりな側面もある。

妹がこんな感じだから、姉のサツキは「しっかり者」であろうとする。

近所のおばあちゃんにメイのぶんまで礼儀正しく敬語で挨拶をし、お父さんが寝坊しても3人分の朝食とお弁当をきちんと準備する。およそ12歳に見えないくらいしっかりしている。こういった「無邪気に見えてしっかり者」なサツキの隙のなさが丁寧に描かれている。

しかし、実はサツキは「しっかり者に見えて無邪気」なのだったと、あとから気づくことになる。

引っ越し先に着いたトラックから、だれよりも早く飛び出した。メイが初めてトトロに会って迷子になったとき、メイの帽子とそこに続く道を見つけたサツキは、迷うことなく歩き出した。メイの好奇心にも負けないサツキの行動力は、思い返せば適所に配置されていた。

サツキの本質はもちろん子どもである。メイと同等に、いや、むしろメイよりも物事を知っているぶん、腐った木柱を見て「わあーっ、ボロッ!」と素直に言えたり、カンタを指して「男の子、キライ!」と断じる描写が成立していた。サツキは、「大人と接するとき」「メイのまえでいるとき」はしっかり者に見える。それは、お母さんが入院しているからこそ、自分が姉としてしっかりしなければいけないという考えもあったと思う。

サツキの子ども離れしたその女丈夫なたくましさは、しかし子どもらしく簡単に折れてしまう。病院から電報を受けたシーンからだ。

電話をかけにカンタと走る場面では、あれほど仲の良かったメイを「おばあちゃんと居なさい」と放っておけるほどの混乱が見て取れる。わがままを言うメイに「お母さんが死んじゃってもいいのね!?」と言うシーンは、メイを黙らせるためだったと言うよりも、サツキ自身の心配が露呈されたと捉えるべきだろう。

耐えきれずおばあちゃんの前で涙を流すサツキは、不安な気持ちが一挙に表情に出てしまったような泣きかたをした。嗚咽もなく、突然の号泣である。自分がしっかりしなければ、という観念が、崩壊した瞬間でもあった。サツキの姉としての振る舞いは、崩れてしまったのだ。

このときメイは、しかしながら彼女なりに「しっかり者」であろうとしていた。

おばあちゃんを前に泣いた姉を見て、“大人の足で3時間はかかる”病院まで、お母さんに会いに行こうとするメイ。メイはメイなりに、自分が頑張ることで周囲を安心させたかったのかもしれない。「メイ、怖くないもん!」は、もしかしたらおばけにではなく、それの象徴ではなかっただろうか。

そんなメイを見失ったサツキは、当然パニックである。メイを探すために、一目散に走り出す。「この道を女の子が通りませんでしたか!?」慌てて尋ねる語調にかろうじて敬語こそ残っているものの、おじさんの答えを聞くなりお礼も言わずその場を去る様子はサツキらしくない。三輪バイクに立ちはだかったり、「池でサンダルが見つかった」と言うカンタの話の続きを聞かずに走り出したり。冷静さを欠いた無茶の連続に、メイがいなくなるということが、サツキにとってどれほど大きなことかを象徴していた。

そんなサツキのなかの「しっかり者」を劇中で解放したのは、トトロである。

12歳のサツキは、子どもでありながら「抱きつく」という行為から遠のいてしまっていた。お見舞いに行ったとき、真っ先にお母さんに抱きつくメイにたいし、ここでもサツキはしっかり者であろうとした。

そんなサツキが初めてトトロに会ったバス停。お父さんが帰ってこない不安な気持ちを隠せずにサツキの手を握るメイの横で、なおもサツキは気丈である。表情とて不安を滲ませない“お姉さん”を演じていた。しかし、トトロに会って、傘を渡し、傘の使いかたを教え、トトロと心の交流をしたサツキは、やがてトトロが去ってお父さんが遅れて帰ってきたとき、メイとともにお父さんに抱きついて「トトロに会った!」と大声で言うのだ。

コマをまわして空を飛ぼうとするとき、大喜びでトトロに飛び乗ったメイの後ろで、サツキはなかなかトトロに抱きつくことができない。「自分はしっかり者でいなければ」が、まだサツキを縛っているのだ。しかし、見つめ返したトトロのにしゃっとした不思議な笑みに吸い込まれるようになにかを感じると、サツキは笑顔を弾けさせながらトトロに抱きついた。

「子どもでいいんだ」とサツキに教えたのは、トトロだったのだ。

子どもの繊細な心情を稠密に描き取るとき、このシーンの描写の細やかさはとても丁寧だと感じた。そしてサツキは、無邪気そのものの声で「メイ、私たち、風になってる!」っと叫ぶのだ。メイとおなじ子どもとして、トトロと夢のなかの空を飛ぶとき、すべてを解放した痛快な気持ちがよぎる。

メイと会ったときには蝶を、サツキと会ったときには雨蛙を、それぞれ予兆として孕ませたトトロの存在は、自然の象徴と幼少の憧憬だろう。なにを隠そう、かのムーミンもトロールの一種である。冒頭でまっくろくろすけを「ススワタリは“子どもにしか見えない”」という話を混ぜ込んだのが「トトロ」や「ネコバス」への伏線だとしたら、サツキが薪をくみに行ったときに吹いた突風がトトロだったという解釈にも筋が通る。あのときのサツキは、子どもでありながらしっかり者のサツキだったのだから。そしてあのときメイはすでに、この家にいる他者の気配になにかを感じていたのだから。

そんなサツキとメイだが、ネコバスに乗って病院まで行くシーンで、とうとうお母さんとは会わないで物語本編は終わる。それは、娘2人がちょっとだけ大人になったことを示している。一方でお母さんは、「あの子たち、見かけよりずっと、無理してきたと思うの」とお父さんに打ち明ける。そして、呆れられながらも「今度はあの子たちに、うんとわがままをさせてあげるつもりよ」と言う。大人になった娘たちと、子を甘やかす親、その絶妙に乖離したアンバランスさで、家族の幸せを予感させている。

ハッピーエンドと括ってしまえば値が安いが、子ども向け映画である本作品に、「子どもは大人の知らないところで成長している」という観点が組み込まれていたことは、大人になってから観た僕にも、まだ招待の猶予がある気がした。本編では退院まで届かなかったお母さんが、エンドロールではサツキやメイと一緒に暮らしているのだから。

最後に、民族楽器でありながらそのテクストを外れひとつの文脈を形成したバグパイプをイントロで使用することで、たんなる古き良き日本の郷愁としての原風景だけでなく、無国籍に解釈できる仕組みになっているOP「さんぽ」。それとは対照的に、ヨナ抜き音階で始まることで日本の昭和チックな心象風景を映し出した「風のとおり道」。音楽的にも非常に優れている二曲を軸に、オーケストラでは小さな透明トトロを庭で追うメイの動作とシンクロさせたりと寸分の計算違いもない完璧な音楽だった。そういう面からも、大人になってから観てよかったのかもな。

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