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倦うさと弛けさを斬新に焼き付けて、『きみの鳥はうたえる』が繰り広げたひと夏の楽園

衒いなく画にこだわったハードボイルドな映像への憧れ


柄本佑の演じる「僕」と、染谷将太の演じる静雄は、冷凍倉庫で働いていたときに知り合い、いまはアパートの一室に二段ベッドをおいて共同生活している。

これは、今日社会に跋扈するシェアと比べ、まったくもって異質なものである。

とても稠密な関係にある二人の濃度を、たがいに、そして他者にさえも、見せることがない。いま流行っているシェアは、どちらかというと、「僕」と静雄のような濃度が欲しいものの、壊れることを恐れて中途半端な関係にとどまっているものが多い実感である。あるいは、それと錯覚したものを誇り違えて他者に見せびらかすものも散見される。「僕」と静雄は、そのどちらでもない。

そんな生活に、石橋静河の演じる佐知子が加わっていくひと夏の出来事だ。

「僕」と佐知子は同じ本屋で働いている。「僕」が無断欠勤した夜、佐知子と本屋の店長が連れ立って歩いているところに出くわす。二人はつきあっているし、「僕」もそのことは知っているのだろう。でも、「僕」はそんなことなど気にもかけて(いないと自分に思い込ませているのだけどそんなことなどおくびにも出して)いない。

すれ違いざま、佐知子が「僕」の腕にそっと触れていく。「僕」は佐知子が戻ってくるのだろうと120だけ数えて待つ。

このシーンは良かった。こういうカッコつけのシーンを嫌味なく描けているのは、映画の独自としての魅力であるとともに、原作者の佐藤泰志の作風をうまく汲んでいる。

そして佐知子は戻ってくる。飲みに行く約束をするが、「僕」はすっぽかしてしまう。眠ってしまったからという最低の理由だ。でも「僕」は後悔もしなければ、のちに佐知子にも寝てしまったからとさらりと言ってのける。佐知子もさほど気にしている様子はみせない。

佐藤泰志の小説は得てしてこういうカッコつけの話である。その点では、この映画はとてもうまく出来ていると思う。

「僕」と佐知子が部屋の二段ベッドでセックスをするシーンがある。途中で静雄が帰ってくるが、ドアを開け、気配に気づくと、そのままドアを閉めて静雄はどこかへ行ってしまう。ことが終わった頃に、静雄は再び帰ってきて3人で飲む。静雄はもちろん、「僕」も佐知子もわかっている。しかし、それがなんだとでも吐き捨てるかのごとく、幼馴染のように自然に互いを茶化したりして楽しく過ごす。

始終徹底してこういった、3人の、楽園のような多幸感に満ちた生活が描かれる。


夜の空気に淀んだ朝の、生暖かい夏のにおい


青の使いかたが圧倒的に上手い。

闇夜の電柱やクラブのネオン、朝焼けの歩道に至るまで徹底してフィルターがかけられていて、それは役者たちの絶妙な芝居の上にもしかり。彼らはその渦中で様々な表情で見つめ合い、そして笑い合うが、そのなんとも言えない瑞々しさがリアルな若者の無力感を粒立たせている。

キャッチコピーに見る夏というキーワードは、冒頭の静雄のナレーションでしか表されていないのに、それでも作品全体から強烈に夏の香りが漂うのは、監督がその暑さの裏に含有される儚さをきちんと理解しているからだろう。

海や花火、あるいは蝉の鳴声が聴こえなくても、夏は表現できるのだ。

むしろ、そういう直接的なものより、それを受けた人物たちの切なげな表情だけで、夏の空気感は伝えられるのかもしれない。長尺の総ての画に独特な倦怠感を残し、その微睡みが夏の余韻を彷彿とさせてくる。

無駄な説明台詞や極力カットを割らない古典的な演出も、まるで森崎東の映画を観ているような感覚で近年の邦画では甚く斬新である。

「なにかがある」わけではなく「なにも起きない」単調な日々の最中にただ遊び続ける彼らの日常は、漠然とした不安を抱えながらも自然体であり続けようとする若者特有の主張だ。彼らはなにかに絶望しているわけでもなく、ただその瞬間の刹那を大切に謳歌するにすぎない。

撮影中、柄本祐は躁状態だったそうだが、映像を観るとそれも納得する。

存在感の凄まじいあの俳優陣のなかで、独りだけ気配を消して映画の持つ厭世観に溶け込むのは骨の折れる作業だったと拝察できる。

彼の歩きかたにはすっかり父親の風格が漂い始めていたが、同年代の肩の力の抜けた芝居をする染谷や石橋と同じ空間を共有した時間そのものが、等身大の夏を実感させられるこの作品のテーマそのものだったのだろう。

まるでドキュメンタリー映画のようなアンニュイな彼らの台詞も、綿密に計算されつくした監督の出色の演出としか言いようがない。夜通しクラブで踊り続ける佐知子が刻むリズムの心地良さなどは絶品である。

幼少の砌よりコンテンポラリーダンスに精通している石橋静河のキャリアを鑑みれば致しかたのないことだが、ゆきずりの関係から始まった女をあそこまでしなやかで艶めかしく描く覚悟は簡単には決断できない。彼らの思い出のなかのひと夏のアバンチュールが陳腐に見えないのは、しかしながら、脇に立つ柄本佑と染谷将太の力量でもある。


結び -聞き手に見る『きみの鳥はうたえる』-


この映画では、原則的にといっていいほど、会話の話者ではなく聞き手を映した。発信する側ではなく、受け取る側をフィルムに焼き付けたのだ。

だから、クラブやビリヤードの場面のように、3人で意味もなく笑い合って楽しさを共有する幸せなシチュエーションであったとしても、会話の中に生じるささいなズレや、場の空気に対する違和感みたいなものが、受け手側のリアクションによって自然と浮き彫りになっているのだ。

例えば、佐知子と静雄が仲良さげに会話しているときの「僕」の表情も、表面上は笑顔を取り繕っているけど、本心では嫉妬や疑いの気持ちを抱えていることが透けて見える。また例えば、カラオケで熱唱する佐知子を見つめる静雄のまなざしも、明らかに、親友の恋人に対する恋心と、それを隠そうとする抵抗の気持ち、そして彼女と交わることはできないという諦めが混じっている。これは佐知子を映しても、ふたりを同じフレームに映しても、きっと切り取ることはできない。佐知子をいとおしそうに眺める静雄を辛抱強くまなざすことによって初めて成り立つ演出である。徹底して話者を阻害し、受け手の側を映し続けるこのスタイルこそ、3人の浮遊した人間関係の不安定さとその先にある「夏の終わり」を観客に刻み込む重要な要素になっているのではないだろうか。

まるで、もうとっくに一日は終わっていて、これから次の日が始まろうとしているのに、がらんどうの街並みに鳥の鳴き声が響き、朝の準備のあわただしい熱を帯びはじめているような。しかし、まだどこかに昨日の名残が漂っていて、このうつろな空気のなかをさまよう感覚。それが「きみの鳥はうたえる」ということなのだと、ラストシーンの佐知子の表情を見て思うのだった。

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