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『もののけ姫』で繰り広げられる文明の衝突に、アシタカが考えるアウフヘーベンとは

ナウシカやラピュタを観たときも同様に感じたけど、初期のジブリ作品は「文化の衝突」というテーマをよく取り上げる。ろくに観たことさえなかった僕がそのパブリックイメージを持ってるくらいだから、ジブリファンのひとには周知済みのことなのだろうけど、人間が何者かと争う根源に通う「自分たちの文化を捨てられない」という通奏低音が一致していることが、当時の日本あるいは世界の情勢にある程度呼応している。

映画が公開された1997年、その前後5, 6年ほどで「文化の衝突」はいくつもの戦争に関与した。91年に始まった湾岸戦争では、日本はPKO協力法を施行し、自衛隊の海外派遣を実現した。99年には、アメリカ軍に対する自衛隊の後方支援などを定めた周辺事態法が成立。2001年にアメリカで9・11テロが発生すると、アフガニスタンでターリバーン勢力、アルカーイダなどとのあいだで度重なる武力衝突が生まれた。2003年、日本ではイラク戦争の影響で、イラク特措法が成立した。

世界で起こる戦争に対して、日本は日本として、衝突する文化のどちら側にも肩入れせずに関係を保ってきた。そんな真っ只中に誕生した「もののけ姫」だが、ナウシカやラピュタとおなじように「自然と人間の文明の衝突」を主題としているとするなら、そのニュアンスは若干異なる。

山を切り崩し製錬場を築いたエボシは、自然に抗う、自然と対峙する存在として描かれている。そして、そのエボシの製鉄した鉄砲の弾が、タタリ神の原因であったこともアシタカは知る。エボシは、ナウシカでいうクシャナや、ラピュタにおけるムスカのような立ち位置で描かれているわけだが、たんに悪者として登場しているわけではない。

エボシの築きあげた文化、それは当然、自然を破壊するだけの文化ではない。自然を侵略していることはエボシ本人にも自覚があるが、エボシにはエボシの、自然を敵にまわしてでも戦い、守るべきものがあった。

身売りされた娘たちや、癩病患者などがそれである。

本来なら女人禁制のタタラ場で仕事を与えている。当時は不治の病とされていた癩病患者に対しても、彼らを人間として扱い、酒と仕事を与える徳を持っている。エボシは、当時の一般的な部落や集落なら弱者であったはずの娘や病人を、普通の人間として扱ったのである。カースト下部にいる人間が平等に働ける社会を、生きる場を形成しようとしていたのである。

事実、タタラ場の村民が生きていくためには、生活のために自然を侵すか、タタラ場を離れ武士の牛耳るもとで差別や不当のなかで搾取されるかしかない。「森を壊すことは、生きるために必要なこと」なのだ。

タタラ場の誰もがエボシのことを「エボシ様」と慕う。アシタカが言った「いい村は女が元気だと聞いた」とは、的を射ているだろう。

社会的弱者が個人を尊重され、生きる場所を持つ。そんな生活基盤をエボシはつくろうとしている。「自国のため破壊をいとわなかったクシャナ」や「王を気取ったムスカ」と比べると、エボシが山や森を焼き払うのには、きちんとした背景と理由がある。

長くなったが、つまり、「自然と文明の衝突」を描きながらも、ナウシカやラピュタのように共生や共存にベクトルを向けるわけではなく、あくまで「譲れない自分たちの文化」と「文化同士の衝突」に焦点を当てているのだ。

この物語には、主だって四つの文化が登場する。

まず、アシタカの文化。呪いを受けたことによってアシタカがあとにした部族では、人間と家畜が対等な存在として描かれている。アシタカとヤックルがおなじ食べものをシェアするシーンがその象徴である。現代の価値観では、動物の食べものを人間が食べることは考えにくい。人間の食べものを動物が食べることはあるが、その逆はない。この不可逆性は、現代人が人間の食事と動物の餌とを区別しているということだ。しかしアシタカは、まずヤックルに食事を与え、それから自分がおなじものを口にする。アシタカとヤックルの関係性がわかるシーンである。

同時に、アシタカとヤックルは一心同体なのだ。

地侍との一戦で臀部に矢が刺さり走れなくなるヤックルを、アシタカは置いていかない。「必ずもどる」と言って、待つことを約束させようとした(ヤックルは聞かなかったわけだが)。

アシタカの精神的な諦観や、肉体的な強靭さとは裏腹に、彼には人情味だとか弱さがあまりない。悪い言いかたをすれば「人間味」に欠けるのだ。しかし、ヤックルがアシタカと表裏一体だとするなら、ヤックルの行動の数々には頷けるし、ヤックルはアシタカの人間らしい優しさの側面を担っていると言える。

タタリ神への恐怖で動けなくなったヤックルに、矢で合図したアシタカは、まるで自分のなかの弱さや臆病な部分と戦っているように見えた。対して、アシタカが撃たれたのちサンのもとシシ神の湖を訪れた際に、サンに自分たちの行路の経緯を話して、アシタカより先にサンと心を通わせたのはヤックルだった。しだいに山犬のモロたちとも打ち解ける。

だからこそ、アシタカは最後に「会いにいくよ、ヤックルに乗って」と言ったのだろう。アシタカは、サンもモロたちも、ヤックルをアシタカと同等に受け入れてくれていることを知っていたのだ。

そして第二の文化は、サンの文化。アシタカが初めて見たサンの姿は、人間であるサンが、獣であるモロの傷の手当てをする姿だった。サンにとってモロは母親同然である。人間や動物といった境目を超えて、母への愛の行為をこなすサンは、アシタカにとって「美しい」と映る。

エボシたちの第三の文化は、そして、自然と対峙する文化だ。動物や自然と対等に暮らしてきたアシタカにとって、木霊の存在はなんのことでもない。しかし、タタラ者である怪我人の甲六にとっては「こいつらワシらを帰さねぇ気なんですよ」と懐疑的に映る。木霊に、自然の生きものに立ち向かってきた文化に属する人間である甲六だからこその台詞である。

最後に、損得勘定で動くジコ坊の文明人としての文化。ジコ坊は、天皇の勅令という絶対命令に従う、ある意味もっとも文化人らしい文化人である。マジョリティの生活を営み、商人気質で、目のまえのものを信じ判断する。「獣とはいえ神を殺すのだ」という台詞から、シシ神を神ではなく獣として重視していることがよくわかる。また、シシ神の首を狙う理由について「やんごとなき方々の考えはワシにはわからん」と発言している。これは、天皇に従う者のなかで、皇族や将軍でもないジコ坊が、生活のために命令を遵守し実行するという生きかたをしていることを示している。そういう意味では、ジコ坊はいちばん人間くさく人間を全うしている。

こうした、四つの文化圏が私欲に則って動くことで物語が入り乱れる。エボシやジコ坊ら「人間」はシシガミの首を狙い、シシ神や自然の森を守ろうとするサンが属する「もののけ」と対峙する。

そんななか、主人公であるアシタカが探したのは、どの文化も侵さずにすべてを救う道だった。

アシタカは、どちらの文化にも一時的に属しており、しかし結局、どちらの人間にもなれなかった。だからこそ、アシタカはどちらの味方にもなれずに「共に生きる」方法を模索する。そんなアシタカを評するジコ坊の「あいつ…、どっちの味方なのだ?」という言葉があるが、とても印象的である。

森とタタラ場、双方生きる道はないのか!?

アシタカの考えを端的に表している台詞である。「人間」と「もののけ」、あるいは「タタラ場」と「侍」などのように、単純な二元論で解決できないことは、アシタカがいちばん理解していた。文化が違うとして、即ちそれが一方が一方を侵略し降伏させることを意味していた時代に、アシタカは、「文化が違うことは、争うことと同義ではない」ことに気づいていたのだ。

シシ神の首を返すシーンで、サンに「ひとの手で返したい」とアシタカが言う。それは、エボシやジコ坊らが率いる「人間」と、シシ神を擁する「もののけ」の争いを、どちらかの一方的な決着で終わらせるのではなく、双方が寄り添うことによらなければいけなかったことを、アシタカが深く理解していたからである。だからこそあの場面は、人間であるアシタカ、そして「もののけ」の立場ながら人間として自活するサンの手によって返上されなければいけなかった。

善と悪や、テーゼとアンチテーゼなど、簡単な二元論で解決しようとするから、争いが絶えない。ならば、第三の道、ジンテーゼを探すことが、双方が生きるうえで必要になってくるのではないか。それがほかならぬシシ神の存在であり、だからこそシシ神は我関せずの立場を貫いた。アシタカの呪いは解けたが、呪いの跡が消えなかったのは意味深長ながら本質を突いている。

シシ神がアシタカの命を助けたシーンで、致命傷を完治させたにも関わらず、右腕の呪いを残した真意もそれならわかる。

生きることは善いこと、死ぬのが悪いこと、なんていう安直な思考で見るからややこしいのであって、シシ神はアシタカに呪いの運命を受け入れさせたにすぎない。出血多量で死ぬ場合じゃない。呪いを受け入れ、苦しみ、ときには恨み、恐怖に覚悟して死んでいけ、と。それはシシ神の意地悪でもなんでもなく、アシタカに自分の運命を受け入れろとメッセージを送った瞬間であった。だからこそ、その本意を直感で理解したアシタカは、泣いたのだ。呪いを解くために村落を出て、その結果が「呪いを受け入れろ」なのだから、アシタカは声もなく、涙を流したのだ。

アシタカの運命は、「タタリ神の呪いで死ぬこと」。その運命を尊重するため、シシ神はアシタカの傷は治しても、呪いは治さなかった。

善きか悪しきか、ではないのだ。自然と人間、でもないのだ。現代人の考えるべきアウフヘーベンを突きつけていた『もののけ姫』を見届けたとき、共生の道は拓けた気がした。人間であるサンでも、もはや人間の世界では生活できない。一度は自分の文化を捨てたアシタカも、結局はタタラ場で暮らすことを選ぶ。そして言う。

共に生きよう。

文化を融合させることもなく、対立させることもなく、共に生きる。互いが違うということを認め、それでも共に生きていくしかない。争いが起こるいつの世界にも、諍いが絶えないどの世界にも、アシタカの決意した選択が、とても頼もしく胸に響く。この言葉が我々と共にあることを、心強く僕は思う。

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