ロックのちいさな奇跡の話

なんで中三の受験期にバンドはじめたんですか? いつから楽器やってるんですか? みたいなことを聞かれることがある。実は、あんまり言ってこなかったけど、僕が楽器をはじめたのには一人の恩師の存在があって、その恩師と出逢うまでにもたくさんの偶然や友達がいる。いい機会なので、その話をします。

中学三年の春、僕の通っていた至って普通の公立中学と、県内の特別支援学校との交流会が両校の計らいで開催されることになった。

両校の一、二年生を中心に企画されたこの交流会は、この時点で三年生だった僕にとって、ほぼ無縁なものだった。受験シーズンのはじまり。常に学年の10番前後の半端な成績をうろついていた僕に、遊んでる余裕なんて正直ないと思っていた。

僕には一学年下の年子の弟がいるのだが、どうも彼は不本意ながらこの交流会の実行委員に選出されたらしい。めちゃくちゃ嫌がっていたのを当時の思い出として鮮明に記憶している。そして本当に、行きたくないからバックレると交流会の担当の教員に申告したと人伝てに聞くのに、さほど時間はかからなかったと思う。

この、交流会の担当教員というのが、僕のテニス部の副顧問で、担当学年は僕らよりひとつ下だったものの、学校生活においてはめちゃくちゃ仲が良かった。廊下ですれ違いざまにローキックをかましたり、後ろから膝カックンを試みたりと、どうみても不良生徒がやることを許容してくれるような間柄だった(でも、これを読んでる中学生がもしいたら、先生にたいしてそんな無礼な振舞は絶対にしてはいけないと、先輩として注告しておく)。

ある日、放課後に何人かの友達と部活に向かう途中、昇降口でその先生に呼び止められた。「おまえの弟がさぁ、絶対出ないって聞かんのやわ。兄貴からもなんとか言ってやってくれやんかな?」

正直、15年近く経ついまも、弟がなぜそこまで交流会への参加を拒んだのか、真相は知らない。「僕から言い聞かせるのはいいですけど、うちの弟は頑固だから聞かないと思いますし、それに元々が不真面目だから代役でだれか立てたほうがいいんじゃないですかねぇ」と、仲の良い部活の副顧問による我が弟の悩みを真剣に考えていたのだが、ここで話が変わってくる。

「レオ、兄貴のおまえはいいやつやなぁ、いっそ三年のおまえに出てほしいくらいやわ」

この、投げやりにも冗談にも聞こえる先生の言葉に、僕は「え、いいっすよ?」と二つ返事で答えたのだ。そして、そばで話を聞いていた僕の同級生たちも、「おもしろそう」「え、俺も行きたいな」「三年は出たらあかんの?」と、口々にモチベーションを示したのだ。

もうこうなったらこのテニス部の副顧問、俄然こちら側に傾いてくる。「本当に!? でも、三年生を出すわけにはなぁ。一、二年を中心にって話だったし…」 考える副顧問。

「一、二年が中心におるんなら、三年が数人混ざったところで差し支えやんやろ」 一瞬でとんちのように打破したのは、隣りにいた僕の同級生だった。たしかに、彼のいうことは間違ってない。

この会話が他の先生方にも通った結果なんらかの計らいがあり、また先方の特別支援学校にも通達されたため、この交流会は「一、二年生を中心に。三年も参加は任意です」と書きかえられた。こうして、三年の夏の大会や、その後に控える高校受験への心配事をよそに、僕と同級生数人が、弟の代役として実行委員になり、特別支援学校との交流会へと動くこととなった。

さっきからあたりまえのように書いているけど、「特別支援学校」とは、視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由など、障害を持つ児童や生徒が、それぞれの等級に準じた教育を受けられる学校のことだ。僕らが交流する生徒の多くは「筋ジストロフィー」という、遺伝子の変異で筋肉が減衰したり、それが内臓の機能にも影響するような筋疾患を患っている生徒だった。

特別支援学校の生徒は、音楽が好きな子が多かった。僕は当時から流行りの歌で自分専用のオムニバスアルバムをつくるために、TSUTAYAに通っては当日中に返す(当日中に返すとレンタル料が安くなった)のをくりかえすような子どもだったから、彼らとの会話は楽しかった。

筋疾患や肢体不自由、あるいはなんらかの障害を抱えているだけで、あくまで自分とおなじ思春期を等しく同一に過ごす彼らとは、将来のことや恋愛のこと、勉強のことや夢のこと、いろんなことを話した。そしてある日、交流会の帰り道に、「バンドをやろう」という話になったのだ。

そこからの話は笑えるくらい簡単に転んだ。両校から楽器をやりたい生徒を集い、ギターを弾けるという特別支援学校のS先生が何本かの楽器を用意し、音楽室の手配をしてくれた。アンプのつなぎかたとか、TAB譜の読みかたとかは、S先生が全部教えてくれた。ストラトキャスターに初めてふれたのがこのときだった。

ときに車椅子でBUMP OF CHICKENを弾いたり、ベッドごと音楽室にきては上体を起こしてレミオロメンのイントロを奏でる時間、それは本当におもしろくて、濃密な時間だった。

青春といったときに高校時代の思い出に偏りがちな僕の思春期において、あえて中学時代の学校生活にフォーカスするなら、間違いなくあの交流会でのバンド活動が、青春のど真ん中を射抜いてるだろうなと思う。

S先生の名前はシュニーブリーではなかったけど、ロックの学校として、ジャック・ブラックよろしく音楽を教えてくれたのがS先生だった。僕にとってこの交流会はまさしく「スクール・オブ・ロック」。大物をぶっ倒す精神はこのときに学んだように思う。

ギターのコードがなかなか押さえられずに苦心する僕に、特別支援学校のS先生が色々な押さえかたを教えてくれる。朝飯前と言わんばかりに5種類のFコードを弾いてくれたS先生が、「指のかたちが違っても、これらは全部Fなんだよ」と言う。

いまでも僕は、Fコードを押さえる際に、一般的なバレーコードではなく、S先生の教えてくれたFコードで弾く。あのときの体験が、いまでも自分のなかに息づいていると実感する瞬間だ。

ジャズベースを弾いた最初の体験もこのときだった。ギターとは全然違う弦の押さえかたも最初は全然できなかった。S先生が、「メロディを担うギターと、リズムを担うドラムのあいだで、音階がありながらリズムの要を任されるベースは、バンドの心臓だよ」といって、オアシスの『ワンダーウォール』のベースをかなりファンキーに刻む。S先生のベースはとてもメロディアスでまるで唄っているよう、でも右手の入るタイミングがグルーヴをつくっていて、まさにメロディとリズムを併せ持っているプレイだった。

スラップ奏者みたいな、ベースをもうひとつの打楽器だと捉える奏法を僕があまりしないのは、あのとき小さいアンプから出力されたS先生のベースラインに、打ちひしがれた経験が大きいんだろうな。

三年の夏が終わり、交流会も幕を閉じ、僕らは受験へと舵をきった。特別支援学校の生徒たちとは、結局卒業したあともあの交流会が最後となってしまっている。

僕は高校生になり、N.E.S.S.と言うバンドでベースを弾いた。卒業後、なんだかんだ浪人しながらも続けたこのバンドは、僕のなかでもっとも長く息をしていたバンドであり、つくった歌も数知れない。

N.E.S.S.の歌は、当時のボーカルだったナルくんが、いまも一人でカフェバーやライブハウスでうたってくれている。こないだツイキャスで「むかしの歌やりまーす」って恥ずかしい歌を演奏されて、僕が赤面したこともある。しかし、拙いながらも僕が一生懸命書いてみんなでつくった歌を、いまでも大切にうたってくれているというのは、ありがたいことである。

いまから3年前の2017年、もうN.E.S.S.はとっくに解散しているんだけど、ナルくんは当時やはりN.E.S.S.の歌をうたってくれていた。名古屋の小さいカフェでうたう彼のとある歌を聴いて、終演後に物販で話しかけてきたひとがいたという。

そのひとは、ナルくんのうたうその歌に感動して、思わず話しかけてしまった、といった感じだったらしいのだが、落語家の父を持つナルくんはめちゃくちゃおしゃべりな性格なので、アレコレとサービス精神で話したらしい。その歌のエピソード、むかしバンドをやっていたこと、作曲した当時のメンバーである僕のこと、いまは一人で歌っていること。

ナルくんとそのひととのあいだで、どのようなやりとりがあったのか具体的には知らないのだけど、そのひとはN.E.S.S.の歌に動かされるものがあったらしく、今年、2020年の2月に、インターネットのなかからこんな片隅まできてこのブログを探し出し、メールフォームにお便りをくれた。

特別支援学校の、S先生からだった。

名古屋で聴いたナルくんの歌に感動したこと、ナルくんと話をしたこと、その歌をつくったレオというベーシストのこと、そのベーシストが、あのとき、交流会に参加していた僕であったこと。いろいろなことが、S先生のなかでつながって、こうして縁となって僕のブログのメールフォームに丁寧に丁寧に書き綴ってくれてあった。

名古屋でナルくんが歌っていたのは、2011年にN.E.S.S.が録音した『Marigold』という歌。名前だけは、いまや超人気シンガーソングライターの代名詞になった曲名だが、高校在学中に書きはじめ、卒業後しばらくして完成したこの歌が、9年の歳月を経て中学時代の恩師と僕とを結んでくれたことを、僕はロックのちいさな奇跡と呼んでいる。

S先生は、ナルくんからN.E.S.S.の音源をすべて借りて、聴いてくれたらしい。ある意味、師匠の耳にふれた僕の曲やプレイが、S先生にはどのように聴こえたのかは、実は訊けないままそっとしまってある。

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