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音楽が解き放つ時間の規定、映画『PARKS』はただの音楽映画じゃない
突然だが、「スポットライト理論」をご存じだろうか?
マサチューセッツ工科大学の哲学助教授、ブラッド・スコウ博士が、「ブロック宇宙論」に則って提唱した論説である。時空間は「過去・未来・現在」を総て内包し、我々は総ての時間に同時に存在しているとする考えかた。「スポットライト」とは、時間が舞台役者のように空間というひとつのステージに同時に存在していて、そこにあたるピンスポットライトが移動していくことで時間が生じることから名づけられている。
それは、20年前の自分も、20年後の自分も、いま現在の自分も、同じ空間内に散在していることを意味している。あるいは、史学に登場する人物が、自分とおなじ文壇に立っていると言ったところか。
映画『PARKS』において、井の頭公園はまさにそういった空間として活写された。ゆえに、音楽映画や、ドラマ映画にカテゴライズできるばかりか、あるいはそれ以上の捉えどころとして、SFやスピリチュアルの要素を持っている。
その作品観に由来するのか、難解な描写も作中には描かれており、それゆえに腑に落ちなかったひとも多かったのだろう。レビュー数だけ見れば両論見てとれる。しかし僕は賛。むしろ絶賛。それを紐解いていこうと思う。
弁天様とは
「弁天様はスピリチュア」
相対性理論が手掛けた本映画の主題歌である。いったいどういうことなのか。
弁天様というのは弁財天のことで、サンスクリット語で「サラスヴァティ」、水の神をさす。たいして日本では、七福神の紅一点として芸能や音楽を司る。
勘の良いひとならピンとくるだろう、弁天様とはまごうことなき木下ハルのモティーフである。水環境の豊かな井の頭公園に現れ、音楽を生み出す。弁財天の特徴を美しく拾い辿る登場人物である。
純が吉祥寺グッドミュージックフェスティバルのステージに立ち、ハルを見つめて呆然と立ち尽くしたときである。小舟で涙をこぼしながら、空を見上げる純は水の中へと沈んでいき、我に返ると自宅のソファで見ていた夢だということに気がつくというシーンがあった。
「水」というものは永久不変、悠久の時間を刻む存在だ。ハルの存在により、「水」というモティーフは映画のなかでも頻繁に登場し、重要な役割を果たしていたことにもつながってくる。
純はフェスのステージでハルと見つめ合っていると、知らず知らずのうちに水のなかにいることに気がつく。そして、さまざまな声を聴く。それは過去、現在、未来、さまざまな時間で発せられた思い出に宿る声の同時多発的な現前の瞬間だった。
純はここで初めて、過去、現在、未来の同居という、「スポットライト理論」の考えかたにたどり着き、それゆえに時間の概念を超越したハルという存在に疑念を抱いた。
ハルの存在とは
そういった、神様だとか、聖域に近いところにいる存在として描かれたハルだが、監督を務めた瀬田なつきがラストシーンについて「意図的に別空間に描いた」ことを示唆しているように、時間の概念には縛られないようだ。
「スポットライト理論」に準拠すれば、ハルは「スポットライトを自在に操作するライティングスタッフ」といったところだろう。
ブラッド・スコウ博士の「スポットライト理論」によれば、同一空間内に同居するものも、過去が現在の位置に移動したり、未来を過去の位置に移動させることはできない。移動したスポットライトは過去となり、スポットライトが当たってない部分が未来である。スポットライトが当たっている我々は、未来に触れることはできない。
しかし、それを自在に往来するのが、今作におけるハルの役割だ。
「過去と現在」という時間軸を特に強調した映画で、井の頭公園という同一空間内において、純やトキオと存在しているハル。過去になってしまった晋平や佐知子、寺田の3人の物語に再びスポットライトを当て、純のいる現在に現前させることができるのが、弁天様であるハルの特性である。
つまりそれは、ラストシーンで真の完成を見た「PARK MUSIC」という歌が、あの時点で初めての披露であったことだ。
勘違いしやすいことであるから多くのひとが誤った解釈をしている可能性が高いが、「過去に晋平たちのつくった歌を、純たちが現在によみがえらせようとした」という見方は不適切である。
井の頭公園が「スポットライト理論」で言うところのステージだとしたら、そこには過去も現在も同居している。だとしたら、ハルという弁天様の登場によって互いに干渉しあえた過去と現在が関わりを持ったからこそ、あの瞬間初めて歌が出来あがったのである。
大円団のラストシーンで、現在の井の頭公園に生きるひとたちのなかに、晋平や佐知子がいるのがその象徴である。彼らにとってもあの歌は、現在との架橋を持てたからこそ、あのとき完成を見たのだ。
オープンリールの意味
物語の本質的構造を端的に表していたのが、オープンリールである。
オープンリールは、片側のカートリッジに巻かれたテープが回転し、再生機を経由して、反対側のカートリッジに巻かれる。このギミック、ものすごくシンプルに「過去と現在と未来」の三者および「それらの同居」を表している。ニクいほど美しく、恐ろしいほど機能的に。
映画に登場したオープンリールは途中までしか記録されていなかった。ある時点で未来が消失してしまい、まだ描かれていない未来を、「過去」に生きる晋平たちと、「現在」を動く純たちが、重なりあって模索していくというのが、原則的な物語構造であった。
映画終盤に、陽の射す純の部屋でオープンリールが動き出した描写がある。テープは、そしてその先の音を刻みはじめた。
テープに「未来」が生まれた瞬間のこの描写は、「過去」と「現在」が絡み合い、見つめる風景を重ねたからこそ生まれたあたらしいメロディである。
つまり、オープンリールが刻みはじめた音というのは、過去と現在いずれかの時点で作られたメロディではなく、「過去」と「現在」が同居する空間で生み出されたメロディであり、「未来」だったワケだ。
結び
我々の、人類の大半の言語習慣においては、時間の概念というものは、過去から現在そして未来へと止まることなく流れていくものとして規定されている。
ゆえに今作のような、異なる時間の同時性を根底に孕む世界観において、それを実現するためのツールが言語であってはならない。言語による縛りから言語を用いて逃れることはできない。
そこで本作では、音楽がそのツールとして採用されている。言語によって規定された思考を、音楽によって解き放つという構成になっている。つまり、『PARKS』における音楽というものは、いわば異なる時間概念に辿りつくためのツールとしての役割を果たしていたに過ぎない。
サピア・ウォーフが提唱したことで有名な「言語は思考を規定する」ではないが、時間というものについて、既存の概念にとらわれることなく柔軟に考える。ただそれだけのことなのに、結構難しいものだ。主題歌に相対性理論を起用したのも、彼らのSFティックな音楽性を考えてのことだろう。
音楽ドラマかと思えば腑に落ちないレビューももっともだが、トリックがわかってしまえば、あとは思考力に挑むだけである。