![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/26985147/rectangle_large_type_2_f6d319f758f614eed9d4c1af8386e42e.jpg?width=1200)
『さよならくちびる』解散もすれ違いも、違えた心も、全部をもってまだ進むんだ
どれだけの仲違いがあろうと、運命の袖すり合わせのどこかで違えてしまった心があろうと、解散したバンドのメンバーの心底部に流れるものは変わらない。それが、原則的にではあるが僕の思うロックンロールの美学である。ビートルズも、マイ・ケミカル・ロマンスも、あのオアシスでさえも。
いまは違うものを持ってしまった感情かもしれない。それでも、ともに夢みて、スターダムを歩き、演奏した時間を、心を違えたあとに「必要のない無駄なものだった」と言い切るのは人間的になかなか難しいものである。あのオアシスでさえも。
ノエル・ギャラガーは、ハイ・フライング・バーズ結成時のインタビューにおいて「リアムの息子と遊んだが、それは楽しい時間だった」「オアシスの再結成が、数字の上でゼロなんてことはないんじゃないかな」と、めずらしく柔和な笑顔と言葉遣いで、答えたという。音楽をやっていなかったら人格破綻者で終わっていたような、あのオアシスでさえも。
なんの話や。映画『さよならくちびる』である。
解散ライブツアーに出立した三人が、愛したり、思い返したり、ときには心の傷に泥を塗りながら、それでもきちんとした終着へ進もうとする姿は、音楽をつくる人間の喜びと悲しみを体現していたし、旅立ちの意を込めた歌にのせてカタルシスに向かうにラストシーンには心に沁みいるものがあった。
歌にこめた物語は、様々な手法で説明が必要となるのが映画の宿命だが、たんに説明の演技をさせるのではなく、ライブMCで吐露させたところが演出の妙技だ。「誰にだって訳がある」制作秘話のシーンだが、この方法をとることによって真実味を持たせつつ説明過多にならない機能性を帯びるとともに、ハルのレオにたいする羨望が重なることで物語に重奏感が生まれる。
◇
このように、映画の音楽的役割はハルレオの二人による歌唱・演奏が大部分を担っている。そのため、劇伴のBGMはかなり少ないなかで制作されている。その少ない劇伴BGMも、ハルがレオに最初に教えたというCとGとAmだけの伴奏をラストライブである函館に向かう道中に流すあたりが気が利いていて良い。二人が最初にセッションした音楽を、二人の最後に回想させることで、間違いなく終わりに向かっているハルレオの原点を、観客に確認させる。
それに加えて、このとき物語上ハルとレオのそばを離れているシマだが、そのシマの奏でるエレキギターの音色が劇伴にのせられたとき、いまはここにいなくとも最後のライブには必ず三人での演奏が実現することを示唆的に表現している。そもそもがシマあってのハルレオである。方法論としては、少ないBGMの演出を一切微細も無駄にすることなく効果的に機能させている。
◇
また、極めて言葉少なな映像に台詞はわずかで、演出も「静」を志向している。音楽を基調とした今作において、台詞ではなく音楽で表現するシーンが多かったことも確かだが、しかしながら、その「静」の演出のなかの何気ない場面の折々に「言葉」が宿っていたことも事実である。
食事のシーンで「無言で大胆にカレーを食べるレオ」と「『いただきます』を告げ上品に食べるハル」。シマと初めて会った日に「シマのライターでタバコに火をつけなかったレオ」と「ライターの火を借りたハル」。移動の車内で「スマホのスピーカーからゲーム音を出すレオ」と「無言でノートと向き合うハル」。挙げていけばキリがないほど、二人の行動は対極的であり、二人の微細な違いが、それぞれの人物像の輪郭を象っていくのを実感する。
ハルとレオは、確かに表面的には対極であるし、変わってしまったように見える。
しかし、ハルの部屋でも、ラストシーンの喫茶店でも、彼女らが食べていたのは場所が違えどカレーである。ハルがレオに教えたCとGとAmのコードは、函館のライブハウスでハルがエレキギターで一人弾いたが、楽器が違えどおなじコードである。
周囲が、感情が、環境が変わってしまって、ハルもレオも、あるいはシマも、もうかつてのようではないかもしれない。それでも、根底に流れるものはおなじものであると、非常に巧みな脚本で表現されている。そういうときに食べるものはカレーであり、そういうときに鳴らす音はCとGとAmである。そういうときに、彼女らが実行にうつすことはなにも変わっていない。
少々唐突で、乱暴にまとめあげたように映ったラストシーンも、それならわかる。
変わってしまった、もう戻れないところまで来てしまったように見える二人の関係は、ハルがレオにギターのコードを教えたときから本質的にはひとつも変わっていなかったのだから。二人の関係がどうなろうと、二人の吸っている煙草は「アメスピ」なのだ。
それは、ハルレオの二人がまだおなじ未来を見据えていることの象徴である。「解散」をしても、それはただハルレオが解散したということに過ぎず、目的地として二人が共有している風景がおなじであるということに変わりはない。そしてその場所にはシマの姿もあることを、ラストシーンのフェードが下がりきる寸前の二人の台詞が示している。
三人が、「ハルレオ」を諦めずに音楽的責任を全うして完成させるサウンドスケープは、きっと格別だろうな。
◇
最後にひとつだけ、このエピソードは決して映画の中核にあるものではないんだが…。
シマの親友が息子に託した「生きてるあいだに音楽は絶対やるな」という言葉を、シマは否定した。
「俺は音楽やってきて全然後悔してない」
『シング・ストリート』みたいな情熱的な説得力はない。それでも、音楽に関わっていられる人間として、シマのこの言葉ですべて肯定されるような救いがあった。
音楽映画として、静かな風景の過去と現在を断片として継ぎ接ぎして貼り合わせた『さよならくちびる』が、心に沁みた最良のエッセンスである。