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8月は死の気配がする

 焼ける夏の光線。虚ろう影。時間の感覚が消え、「平和」な今が揺らぐような眩暈。

天空から火の球がふり、何もかもが焼けこげ、黒く滲んだ血の跡 肉が焦げる匂い 牛のように四肢をあげて水に浮かぶ人だった人。

白昼にそんな妄想が思い浮かぶ。

今日は2024年8月2日、広島原爆投下のあの朝まであと4日。長崎投下まで1週間。敗戦まで13日。

原爆投下では、その年の年末までに21万人の方が亡くなった。太平洋戦争末期には38万人が空襲で亡くなっている。沖縄戦では日米合わせて約20万人。

沖縄の夏の大地のサトウキビはよく茂る、それは死者の栄養を吸ったからだと沖縄の方から聞いた。

 私の父の末の弟の妻は広島出身で、お父さんは爆心地、原爆ドームあたりで被爆された。本当に熱線で消えて、いなくなったと聞いた。家族はそれしか知らない。「消える」、悲しいことだ。

 祖父は帝人で大久野島に勤めていた。広島の原爆投下の後、死屍累々の広島を見たと私に一度だけ語ったことがある。

 小学生のとき、呉のおじさんとお風呂に入った時に背中に三つ丸い傷跡があるのを見つけた。「おじちゃん、これなーに、どうしたの」と聞いても無言で何も答えれくれなかった。後からおばに中国戦線での貫通銃創だと聞いた。殺されかけたが、また殺したのだろうから生き延びたのか。

 その叔母も呉の駅前で米軍のグラマンに空から射撃され、九死に一生を得たと言った。

 1928年生まれの父、母からは戦争の体験を一言も聞いたことがない。敗戦時17歳である。どうしてなのだろうか。

 母の母、つまり私の祖母の納骨で1996年、山形県の米沢近くの今泉というところにある墓に納骨に行ったことがある。所要時間8時間、滞在時間20分で親戚の方の労いの言葉を無視し、振り切るように「帰るよ、廉」と言い放った母。一言も理由を私には説明しなかった。その沈黙に「お前は知る必要がない」という無言の意志を感じ取った。

その夜、母は厄払いをするかのように酒を飲み耽った。私を貶すことを酒の肴に。この謎も叔母に尋ねた。叔母は「ただしちゃん、皆、貧しかったのよ。疎開ではいじめられたからね」とポツリといった。

8月は死の気配がする

死の気配・匂いを本当に味わったことが一度だけある。2011年8月東日本大震災の五ヶ月後、石巻を訪れた時だ。

 普通の道を車で通っていると、独特のタンパク質の腐敗する死臭が漂い始めた。耐えられなくなり、案内をしてくれた方に聞いた。火葬が間に合わず、「土葬」の墓地がそれだと横の空き地を指差した。車をとめ、敷地に入り、合掌した。

戦争は死の匂い・気配がするのだ。

 僕は昭和で言うと32年生まれ。敗戦から12年しか経っていない。確かに郊外の団地に引っ越した里山には防空壕が残っており、そこで遊んでいてめちゃめちゃ叱られた記憶があるくらいだ。2024年の今からだと12年前は2012年。東日本大震災の翌年。民主党内閣のころは戦争していたという時代感覚なのか!全然昔じゃないな。

戦争は妄想と「狂気」だと本当に思う。1940年の総力戦研究所のシュミレーションを受け入れ、少なくとも真珠湾攻撃はせず、中国から撤退していれば と思うのは歴史には「もし」はないの例え通りか。

日本では戦争末期、特攻隊員には大量のメタンフェタミン、つまり覚醒剤が投与されたという。そしてヒトラーもモルヒネに覚せい剤、鎮痛剤、ホルモン剤、果ては生き物のヒルにドイツ兵の排せつ物。この異様な薬物を最後の9年間、その全てを摂取していた。

戦争は本当に妄想と「狂気」」なのだ。

しかし、その妄想と「狂気」が、この夏、現実にまたなろうとしている。これが私の妄想でなければ良いが。

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