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#9 すね毛も剃れないくらいで
3歳と1歳の子どもの面倒を見てほしいという依頼。
依頼主は母親で、依頼主と夫が家にいる間に子どもの遊び相手になってほしいとのこと。最近、依頼主が自転車事故で骨折してしまったので子どもの相手がままならないという。
LINEで来た依頼文は、文章自体は挨拶から始まり丁寧な物言いなのだが、句読点が一切なかった。通常、読点が置かれるであろう場所には半角スペースが置かれていた。
独特な文章と、見知らぬレンタル人間に子どもの面倒を見させようとするその感覚からして、ヤバそうな依頼主だな、とちょっと悩んだものの好奇心が勝り、依頼を請けることにした。
ちなみに私はベビーシッターの資格など持っていない。
ましてや子どももいない。甥と姪はいるが、会えた時に都合のいいタイミングに遊ぶくらいで真面目に面倒を見たこともない。それでも依頼主は構わないというので依頼が成立した。
依頼当日、1時間30分以上かけて自宅から隣県にある依頼主宅へ向かった。最寄駅から歩くこと15分、住宅街の中に依頼主宅はあった。
家に上げてもらい依頼主と初対面すると、聞いていた通り痛々しい包帯を左半身のそこかしこに巻いていた。想像よりも大怪我だった。それと同じくらい驚いたのが、玄関が物で溢れていたことだった。
玄関だけでなく、廊下もリビングも物だらけだった。
同じような大きさの物が積み上げられていたので、整頓する意思は感じられたが、整理はされていなかった。
3歳の長女が物で溢れたリビングの中で出迎えてくれた。
見知らぬ大人にも挨拶できる人懐っこい子だった。
洗面所をお借りして手を洗った後、リビングの中央に置かれた座布団に座るように促され、依頼主も私の隣にどかっと座り「今日は2時間この子の遊び相手になってあげてください。あと私の話し相手もお願いします」と言われ、依頼がスタートした。
娘ちゃんが「これ見て〜」と部屋中に散らばったおもちゃを持ってきては披露してくれるのでリアクションをこなしながら、依頼主の身の上話を聞いた。
依頼主は私と同い年で現在育休中であること。
最近、自転車で転んで骨折をしてしまったこと。
そのせいで家事もままらないが、夫は協力的じゃないこと。
怪我がしんどくて掃除が間に合わないこと。
だが、物の量からして一朝一夕の汚れ方ではないので、怪我をする前から部屋は汚かったことは容易く想像できた。
他にも、依頼主はレンタル人間ホッパーで過去何年に渡ってたくさんのレンタル人間を借りてきたことを話してくれた。
依頼内容は多様で、今回のような子どもの遊び相手の依頼もあるが、単なる雑談相手を依頼したり、家具の組み立てを依頼したり、様々な場面で利用してきたという。依頼主は過去に借りたパフォーマンスが良いレンタル人間のことは褒めていたが、悪いレンタル人間のことはボロクソに言っていた。
そんな話を私の隣に座っている依頼主は話してくれるのだが、その間ずっと伸び切った洋服から下着がはみ出ていたのと、見たくもないすね毛が覗いていたので、目のやり場に困った。
依頼主は「怪我がしんどすぎて、すね毛も剃れないくらいで」と言っていたが、私は、なら隠してくれよ、と思っていた。
すね毛を視界に入れないように娘ちゃんに絵本を読んであげていると、1歳の子を連れて外出していた夫が帰宅した。1歳の息子ちゃんも笑顔が愛らしい子だった。
夫に挨拶すると「こんにちは」と一言言って息子ちゃんを寝かしつけに寝室に去っていた。依頼主は夫に私の存在をベビーシッターと伝えてあるらしい。夫の姿が見えなくなるとまた夫の愚痴が始まった。
結婚当初は夫の実家に同居していたこと。
義実家と依頼主の相性が悪く、嫌味を言われ続けてきたこと。
夫は依頼主を守ってくれないので、依頼主が孤軍奮闘していたこと。
夫の転勤を機に、半ば喧嘩別れに近い状況でこの家に引っ越してきたこと。
夫は家事育児に協力的じゃなくモラハラ気質があること。
ストーリーだけ聞くと、いろいろ苦労したんだな、と同情モードに入るが、気に食わないものをボロクソに言ってしまう依頼主の性格と、極端にセンスのない家事能力を目の当たりにすると、義実家が嫌味を言いたくなる気持ちもなんとなくわかった。
そんな中、娘ちゃんが「パンダの絵本を読んでほしい」と言うので、一緒に探してあげたが汚部屋の中では見つけられない。
「パンダどこ〜?」と嘆くので、私が「中国に返還されちゃったんじゃないかなー」と伝わらなくていいジョークを発したら、依頼主に「3歳なのでもっと簡単な言葉で話してあげてください」とちょっと怒り口調で言われた。
あと、娘ちゃんがおせんべいのおやつを食べていて「私このおやつだいすき!一個あげる」と一個くれたのが、ぬれ煎餅かってくらいしけっていた。無邪気な笑顔に反比例して、胸がキュッとした。
帰り際、お土産です、と冷蔵庫に入っていた炭酸水を1本を手渡されたのも謎だった。
依頼主と私の相性も良くなかったのか、会話のテンポも噛み合わなくて、正直、非常にしんどい依頼だった。通算9回目の依頼の中で過去一しんどかった。
依頼はこの日と翌週の2回セットだったのだが、依頼主も私との相性の悪さを察知したのか、結果的に翌週の依頼はキャンセルとなり、それ以来この依頼主には会っていない。今頃、他のレンタル人間相手にボロクソ言われているのだろうか。あるいは忘れ去れられているかもしれない。
やはり依頼文から漂う違和感の直感は当たるな、と帰り道で思いながら、子守り案件は二度とやらないと心に誓った。