『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』がつまらない理由※ネタバレあり
『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が面白いと聞いて、アマプラで見てみた。
結論から言うと面白くはなかった。その理由は、終盤の水木(主人公)の沙代(ヒロイン)に対する態度のせいである。
物語の序盤から中盤にかけて、水木は沙代からの猛烈なアプローチを受けるが、最初は「夢みがちな少女の一時の気の迷い」だと真剣に考えず、むしろその恋心を利用しようとしていた。
水木は戦争経験した兵士上がりのため、人間のエゴに絶望しており、そのため人の愛を信じることができなかったのだ。愛を信じず、人を支配する側に立つことが人生での目的だと考えていた。
しかし妻を愛するゲゲ郎に出会い、徐々に心情が変化する。
沙代は祖父から近親相姦の虐待を受けていた。そして祖父が死んだあとは叔父から犯されそうになったため呪殺し、また近親相姦の件を水木にバラそうとした叔母も呪殺した。
水木は終盤にそれら諸々の事情を知ってしまう。
水木は、沙代にこれほどの心の傷と罪を背負わせてきた龍賀一族に憤怒する。「こんな一族に憧れを抱いてきたのか」と今まで持っていた"力を持ち支配する側に立つ"という考えを改める。
物語的に言えば、ここが起承転結の転である。
そして水木は沙代とともに村から出ることを決心する。
ここで水木の心情は
"力を持ち支配する側に立ちたい"
から
"人の愛を信じる"
へ移行したのだ。
人の愛を信じるようになったからこそ水木は一旦引き返して囚われのゲゲ郎を助けに行く。
なのに、だ。この後、沙代とともにゲゲ郎の窮地を救いに行った際、不可解な行動を取る。沙代は自身の近親相姦及び呪殺の過去を水木が知っていたと気づいた時、彼の反応を伺うのだが、水木はなぜか気まずそうに目を逸らすのだ。
その結果、沙代は彼が自分を受け入れてくれないのかと絶望し妖魔となり死ぬ。
これは物語的に明らかなミスである。
「水木も人間だからそんなすぐに沙代を受け入れられないよね」というのは許されない。すでに"人の愛を信じる"へ移行したのに、まだ人(自分を含め)の愛を信じきれないというのは、まるで人生ゲームで勝手にヒトマス戻るをしているようなものだ。ヒトマス戻るならば、そのストーリーが必要なのだが、そんな描写はない。
物語において、転で生じた主人公の変化は理由(となる特別なストーリー)がなければそのままクライマックスへ地続きでなければならない。なぜなら物語とは主人公の変化を描くものであり、その変化こそが最も重要だからだ。それを理由もなく、転の前までヒトマス戻るをしては全てが台無しになってしまう。
本来なら沙代が、水木が自分のおぞましい過去を知っていると気付き落ち込んだ場面で、彼は自分の愛を信じて彼女を抱きしめるべきなのだ。一度彼女の愛を受け入れたのだから。そして人の愛を信じたからこそ、二人は引き返してゲゲ郎を救いにきたのだから。
だが物語はそうはならず、なぜか水木は沙代から目を逸らして拒絶を示してしまう。何度も言うが、人間だから矛盾した行動をとってしまうよね、というのは物語を創作する上で許されない。登場人物が矛盾した行動を取るならば、矛盾した行動を取るに至ったストーリーが必要となる。何もなしに矛盾した行動を登場人物が取った場合、それはただのキャラクター崩壊である。物語におけるリアリティーというのは脈絡のない人間を描くことではない。むしろ登場人物の行動や性格形成の因果を丁寧に描くところにリアリティーは宿る。
さて。ではなぜ今作でこのような致命的なミスが生まれたのだろうか。
これは私の予測だが、誰も救われないホラー作品、というテイストを重視してしまったからではないかと思う。邪推かもしれないが、甘いメロドラマ風味は入れたくない、という製作陣の妙なプライドがあったのではないだろうか。
ハッピーエンドが安っぽいということはないのだが、なぜかホラー系には救われない話至上主義的な雰囲気がある。しかし今作はホラーというより主人公の変化(成長)を真正面から描いた正統派物語であった。
おそらく、そこの噛み合わせが上手くいかなったのだと思う。製作陣は「救いのないホラー作品」と「主人公の成長を描くビルドゥングスロマン物語」の狭間で、ついミスを犯してしまったのだ。そのため物語的には不可解なヒトマス戻るを主人公にさせてしまったのだ。