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玉山(3952m)登頂記録 - ただただ歩幅小さくしてステップを刻み続けた

山頂にて

2022年6月20日6:00-7:00、私達が登頂したこの時間帯には目測で約30人の人達がいた。そのうち10人ぐらいの集団が掲げていたのは赤と白の旗、インドネシアの国旗だった。

マレーシアの国旗を持つ人もいた。金髪で長身の青年三人組もいた。国旗は持っていかなかったが、私も外国人だ。なかなか国際色豊かだった。いかつい人達が集まっているのだろうと想像していたが、小柄な若い女性だけのグループも登ってきていた。

私たちの前で撮影していた3人組。彼女達の向こうに見えるのが北峰3858m。

登頂者はみなそうする様だが、彼女たちも頂上の石碑のところで記念撮影をしていた。実に様々なポーズをとる。見ていて微笑ましくなってしまうくらい創意工夫に富んだポーズをとる。

山頂にいる人達は皆、気分が高揚しフレンドリーな雰囲気に満ちていた。なんともニコやかで、にぎやかな空気に包まれていた。

主峰の遠景。よく年撮影。

海抜3952m。ここ玉山は台湾人の誇り。主峰の頂上は台湾人にとってあこがれの場所だ。私はそのように感じとった。

抽選

ここに至る道は簡単ではない。まず入山許可の抽選を突破しなければならない。聞くと日々数千人が抽選に参加しているみたいだ。幸いにも私は外国籍であるため一定の優先枠がある。観光産業を振興する台湾政府の深遠なる配慮があるに違いない。おかげで競争倍率はかなり低くなった。5,6回目の抽選で幸運を引き当てた。当選した外国人一人に対し台湾人一人の付添が許可される。同僚と私はこのようにして入山許可を得た。

玉山登山の歴史

この山々はもともとは台湾原住民、鄒族(ツオズ)や布農族(ブヌンズ)の聖地であった。

登頂を目指す登山活動は外来者によってはじめられた。古くは1900年に日本の二人の人類学者、鳥居龍蔵と森丑之助がそれぞれ別のルートで主峰に登ったのが文字の記録として残る最初の登頂と言われている。

そのあたりのことが搭搭加(タタカ)登山口の説明板に記してある。当時は大変な困難をともなう登山だったと思われる。

鳥居龍蔵と森丑之助は原住民部落を訪ね歩き各種の研究記録を残している。
海抜2600mにある登山口。ここまでは管理局のシャトルバスで来ることができる。一般車ははいれない。

近年の大衆化した玉山登山はここを起点とする。安全と景観、利便性と自然保護がバランスし、観光解説も充実している素晴らしいルートだ。

よく整備された山道

歩き始めた最初のところに皆がよく写真に取る場所がある。崖の細道だ。私のように山歩きに慣れていない者はとても緊張する。ここで人とすれ違うのは実に嫌なものだが、山歩きに慣れている人達は難なくすれ違っていく。

右側が気になってしょうがなかった。
別の場所。下山時の様子。疲れている。


青空を背景にして遠くに尖った山などが見える。景観が素晴らしい。これらの眺めを楽しみながらゆっくりゆっくり進んでいく。

体調は悪いが、気分は清々しい。

途中、自然トイレが2箇所ある。山頂に近い山小屋まで8.5km有るのだが、トイレはだいたい2km付近と6km付近に配置されている。自然環境の保護の観点と、もともとは原住民の聖地であることもあり登山者のマナーは皆すこぶる良い。途中、崖から少し出っ張った岩がある。皆岩の上に座ったり立ったりして自身のバランス感覚、勇気を誇るかのようにポーズをとって記念撮影する。我々も真似してみたが、怖くてとても立てない。へっぴり腰で座るのが精一杯だった。それでも十分楽しい。

他の人たちはここで立ち上がってポーズを取る。怖くて到底真似できない。私にはこれで十分。

我々の歩く速度は極端に遅かった。私が高山病による頭痛と、それを原因とした不眠で前夜は一睡もできず体調不良だったからだ。次々と他の登山者たちに抜かされていった。

所々設置された階段や橋が無ければ到底初心者には無理な道だ。

登山口から5.5km地点、疲れ切ったところに休憩所がある。同僚はチーファン・チーファン(ご飯だご飯だ)と大喜びしていた。

ヘトヘトに疲れた。寝転がったら起き上がれなかったかもしれない。

主峰が見えてくる

さらに歩き主峰の頂上およびそれに連なる尾根が見えてきた。登山口を出発しすでに4時間強経過していた。

背後に聳えるのが主峰3952m

さらにさらに4時間歩き続け、山小屋に到着したのは午後4時ちょうどだった。登山口を出発し実に8時間経過していた。

快適な山小屋

排雲山荘は想像以上に新しく清潔な建物だった。

海抜3402mにある排雲山荘。日治時代1943年開設。もちろん何度も建て替えられている。一泊480元。寝袋と3食込みセット1050元。手数料込みで全部で1540元(約6500円)。安いですね!
山小屋の中の様子
2階に部屋と荷物置き場がある。

到着後一時間のうちに荷造り再編と軽く休憩し午後5時から夕食。食堂の大型ディスプレーでは動画が流れている。体調不良なら登頂はやめよ。安全に帰ることが一番大切だ、というような啓蒙であった。

洋式トイレあり

トイレは屋外と建屋内と2箇所有り、建屋内は洋式だった。これは地味だがありがたい。足腰が疲れ切った身には一度しゃがんだら立ち上がるのに相当苦労するだろうとの不安があった。

山小屋の食事

また、海抜3402mの高所で温かい料理が食べられるとは思ってもみなかった。

食材を担いで上がって来てくれる屈強の男達に感謝。

次の予定は、日付がが変わった深夜1:30起床、2:30出発、5:00登頂だ。シャワー設備はない。夕食後早々に寝る。

ベッドはそこそこ広く大男でも問題ないだろう。ウレタンシートのようなものが敷いてあり快適だ。寝袋に入るが一向に寝れない。寝袋の内側がツルツルすべり姿勢が保持できず寝相が決まらない。枕はなかった。

高山病の苦みと葛藤

前夜一睡もできていない状態で8.5kmを8時間歩き続け800mのぼってきて疲れ切っているのに寝れない。頭痛で眠れない。眠れなくても目をつむって休んでおこうと、ずっとこらえていた。

高山病に効くという漢方薬の錠剤を何回か飲んだがダメだった。絶望的な気持ちの中で起床時刻1:30をむかえた。「もうダメだ」、「行くべきでない」。体調不良なら行くなという前日の啓蒙ビデオを思い出す。

いろんな言葉が頭に駆け巡る。登頂修正計画など色々考えてみるが、同僚に中国語で説明できる自信はなかった。体調が依然として良くないことだけを説明し出発予定時刻10分前まで横たわっていた。

最終的に2:20、心配して覗き込む同僚の顔を見て急に元気が出た。予定を少し遅れて2:45に出発した。

体力の限界

心は元気になっても体はそうはいかなかった。歩き始めて、登り始めた最初の一歩目から筋肉疲労を感じた。頭痛のほか息を吸うと喉から肺にかけて”痛い”。これも私にとっては呼吸器系に現れる高山病特有の症状だ。このような時、普通は「先が思いやられる」のだが、この時は先のことを考える余裕は一切なかった。

1.5-2足長のステップを刻む

ただただ歩幅を小さくして一歩一歩を刻む動作を単純に繰り返す。この動作だけに意識を集中した。100-200mごとに短い休憩をとりながらゆっくりゆっくり進んでいった。

このライト一つで十分明るかった。
先を行く人たちのヘッドライト。ここでもどんどん抜かされていった。

それでも素晴らしい経験

こんなにヘトヘトでも景色を楽しむ余力は残っていた。遠くの平野部に嘉義市の街の明かりが見えた。

肉眼ではこんなに明るくはない

やがて朝焼けが始まる

午前5時ごろ。後10分で日の出。

日の出に間に合わないことはもう明らかだ。それでも全く焦りはない。すでに時間の問題ではなくなっていた。体力の限界状態で、頂上まで進めるかどうかだけが関心事になっていた。

遠くから玉山を見ると、主峰の頂上部分が三角に尖って見える。その部分、500mぐらいだろうか、その行程はほぼ岩場の登山となる。

そして、最後の最後200m残すあたりで一気に厳しくなる。多くの人はストックを岩の上に置いて、鎖にしっかりつかまりながら登っていく。

ここから先、厳しかった〜
鎖に掴まっていさえすれば落ちることはない。
後続の見知らぬ登山者。こんな所を通って来たのかとゾッとする。歩いている時は必死で気にならなかった。

登頂成功!
やっとのことでたどり着く

当初目指した日の出時刻5:11を大幅に超過し、6:00丁度に山頂に到達。

高山病の症状、筋肉疲労、睡眠不足、高所恐怖症であったにもかかわらず、不思議なことに怖かったとか苦しかったという記憶は全く残っていない。

岩の絶壁で鎖につかまりながら見上げた山頂や、後続の登山者たちの姿が記憶に残る。そのあと冒頭に記述した山頂の賑わいの中に入っていった。

ん?!  女性が多いな!

素晴らしい経験だった。
ありがとう台湾!

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