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vol.4 大日本琉球藩民五十四名墓(台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)

大日本琉球藩五十四名墓

1871年10月、琉球本島の那覇を出発し朝貢の帰路にあった琉球宮古島の2艘の貢船が、台風に遭い台湾東南海岸に流れ着いた。3人が溺死、66人が泳いで上陸した。この内54人は高佛社の人に敵と誤認され殺害された。首は原住民部落に持ち去られ骨架台に置かれた。鄧天保、楊友旺らは殺害された54人の遺骸を埋葬した。埋葬地は雙溪口だった。1874年9月、日本軍は瑯嶠地区に駐在し4ヶ月あまりの間、北京条約締結に向け日清間の協議を行っていた。日本代表の大久保は、被害にあった琉球民のための墓を建てることを特別に要求した。このため西郷従道は軍を撤収する時54人の遺骸を統埔に遷し、さらに林阿九等に毎年20元対価を払い祭祀を管理するよう指示した。「土饅頭型」の墳墓を建設し、前面に高さ1尺幅9寸の紅瓦を嵌め込み、紅瓦には「大日本琉球藩民墳墓、埋葬人楊友旺、林阿九統帯、張眉婆眾人等、責任者は林阿九の子林椪獅承祀」などの文字が刻まれている。墓碑には廈門産花崗岩が用いられ、高さ5尺幅1尺5寸、表面に「大日本琉球藩民五十四名墓」、背面に事件の略記が刻まれている。
1925年、事件の生存者の一人である島袋亀の意を受けて琉球総督府鉄道部工務課長の照屋宏が、台湾において墓を改修するための運動を始めた。改修後には「牡丹社遭難民の墓碑改修報告書」を出版した。運動開始の翌年に墓の改修が始まった。高雄の技師和田真氏が設計し、恆春郡役所が施工を請負い、1927年に完工し、ここに島袋亀の遺願は成就した。今回の改修の特に大事なところは、遭難者と生還者の名簿、救助者遺族の系譜を列記したことだった。この他、古い石碑の下に三層の石の基礎を追加した。最下層は4尺の石、中段は高さ1尺幅6寸の石で罹災者五十四人の姓名が刻まれた。上段は高さ8寸の石で、全体では高さ11尺4寸となった。さらに石の壁で墓の周囲を囲み、今日の状態の基礎となった。
(翻訳終わり)

この事件をきっかけとした台湾出兵の決着までの一連の出来事を牡丹社事件(1874年5月6日-12月3日)と言うようです。その間、日台両国で非常に多くの人が亡くなりました。今日の平和な時代に感謝するとともに、亡くなられたすべての方々のご冥福をお祈りいたします。2021年1月24日訪問。

原文になるべく忠実に翻訳したが、一部意訳した
文中にある紅瓦がこれ
墓標の後ろが「土饅頭型」の墳墓
墓標を正面から見る
幹線道路から少し入った所に静かに佇む
目印の標識
日治時期とあるので、初期の墓標と思われます。
これはFBのグループの画像を許可をもらって転載しました。

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