vol.9 ワリス、日本語教育を受け、育ち、抗日戦士の家に嫁いだ人(vol.7関連)
vol.7の関連での続きです。
「最後的拉比勇」徐如林,楊南郡 著
これを少しだけ翻訳します。見出し写真もこの書籍の23ページ一部です。
著者達がvalisワリスという布農族のお婆さんにインタビューするのですが、お婆さんにはどんな感情がよぎったのか、感慨深いものがあります。
(訳)
民國七十七(1988)年元旦,我々は南横公路にある梅山村にいた。歴史上の人物と対談をするのだった。歴史文献にもう何度も登場した事のある「布農族一の美女」と言われた華利斯(Valis,顔涼娘)が我々の前に座っていた。当時彼女はすでに72歳であったが、顔の輪郭や目、耳、鼻、口、皮膚などの五官は繊細で美しかった。眉間には優雅な気品があり、眼は透き通っていた。我々が八通關古道のフィールド調査進めて行った時に、布農族の抗日史上重要な役割を演じて来た少女がいまだ健在だということを偶然知った。どうしても会いたいと言う気持ちに駆られ、当時玉山國家公園の解説課の呂志廣課長にお願いして、この面会の場を設定していただいた。梅山村に着いた時、また一つ意外な喜びに出会した。もう1人の歴史上の人物、抗日の英雄拉荷阿雷の孫にあたる阿里曼(Aliman,顔建榮)だ。少年時代には戦争に参加したことがあり、その祖父の遺留品である田村式長銃を持って我々の前に立っていた。この人もすでに70歳の老人だ。私たちは古い写真を持って来た。二人の老人の前に一枚一枚平らにして差し出した。その1枚は1937年、その日と同じく元旦だった。台湾総督府の平澤亀一郎が隊を率いて、最後の抗日基地である塔馬荷(Tamahu)を訪ねた時の、この地で暮らす拉荷阿雷一家の集合写真だ。もう一枚は生き生きとした写真で、家族で酒を飲んでいるところで、熱気が渦巻き喧々囂々と声が聞こえてきそうな、小米酒の甘い香りがしてきそうな感じがするものだった。二人の老人は嬉しそうに当時の家族を一人一人指差し見つめていた。華利斯と阿里曼は年齢は2歳違いであるが、叔母と甥っ子の関係だ。僅か17歳だった布農族一の美女は、「理蕃」の政治目的のために拉荷阿雷の二人目の子であり、38歳で配偶者を亡くしていた西達(Sida)に嫁がさせられたのだった。華利斯は当時どのように思っていたのだろうか?我々は満を持して「秘密兵器」を取り出した。生後七か月になる女児綾子を抱いて西達と一緒に撮った写真だった。
果たして激しい動揺が見え始めた。もともと穏やかな性格の華利斯が、震えながら写真を手にとり、しっかりと胸に押し当て、目を閉じた。体が前後に揺れて止まらず、両の目からは涙が溢れ、ポツポツとほおをつたった。これは彼女の人生で最も深く心に刻まれた時期だった。写真に写っている3人の中で、彼女だけがまだこの世にいる、、、 彼女が落ち着きを取り戻し、涙をぬぐい去り、ごめんなさいと笑みを浮かべるまで、しばらく時間がかかった。まだ両手で写真を持っているがインタビューを続けられるまでになった。彼女は優雅で純粋な日本語でその年の状況を1つずつ説明してくれた。その流暢な抑揚は、過去に役人、学者、ジャーナリストから賞賛されてきた。しかし、その日本語も塔馬荷の家では全く役に立たなかった。抗日が18年間にもおよび、家族の誰もが日本語教育を受けておらず、まったく理解しなかった。したがって、私達と阿里曼との会話では、彼がそれほど流暢ではない日本語で1つか2つしか答えることができず、それらのほとんどはまだ華利斯が通訳する事になった。
(翻訳終わり)
インタビュー時点で写真に写っている夫の西達も赤ちゃんも居なくなっていた。アリマンさんと話している時、西達と華利斯の息子の嫁という人が通りかかった。物静かなお婆さんでした。
様々な出来事を経て今の日台関係があるのだなあと、大切にしたいなあと、あらためて再認識しました。
文中に登場するアリマンさんは、vol.7のアリマンさんのおじさんだそうです。