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vol.11 特攻隊基地のあった島。哀悼の意を込めて、この人達がここにいたことを忘れない 。(台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)

望安鄉

台湾本島の西側に澎湖島がある。その南側に更に小さな島がいくつか有る。その一つが望安鄉(ワンアンシャン)。2019年12月15日、何の予備知識も特別な理由もなくこの島を訪れた。のどかな風景を楽しんでいるところに奇妙な船の展示が目に飛び込んできた。各種の説明板を見ていくうちにそれが神風特攻隊とよく似た任務を負った人たちの記録であることを知った。震洋隊という言葉も、この時ここで初めて知った。状況を思い描くと胸が痛みます。当時の敵も味方も関係無くご冥福を祈りたい。この人達の存在を忘れない。亡くなられた方々への哀悼の意を込めて、少しずつ翻訳してみる。

(翻訳)

震洋隊

1944(昭和19)年の夏、日本軍は「 捷号」作戦計画を策定した。9月か​​ら11月にかけて、新たに編成された震洋隊がフィリピン、南西諸島、台湾に順次展開配備されていった。現地機動部隊、警備隊、特攻隊の編成が命じられた。 初期に配備された震洋隊は、主に1型艇だった。 1945年1月以降、フィリピンが米軍の攻撃を受けていたので、新たな展開は台湾、澎湖、南西群島 (韓国済州島、鹿児島、沖縄および中国東南沿海の船山群島、厦門、海南島、香港など) に集中し、震洋隊の基地が最も密集した地域であった。
1型艇の継続的な配備に引き続き、改良された5型艇の艦隊も編成された。  1945 年 1 月末には1型艇の編成が中断された。5型艇の艦隊は 3 月まで拡大を続けたが、この間、米軍が沖縄と硫黄島を次々と攻撃し、前線での激戦、空襲、敗北により特攻の効果を発揮することができなかった。これが後方における生産および展開が停滞していく原因となっていった。

出典/建築家 楊仁江(澎湖縣指定史跡西嶼弾薬庫と東鼻頭震洋艇格納壕の調査研究)

望安鴛鴦窟基地

震洋特攻第二四隊 若松部隊 部隊長若松祿郎
部隊編成
下士官7名、搭乗員50名、本部付18名、整備隊員35名、基地隊員73名(他基地出身の将校1名、「甲16期」からの地元志願兵50名を含む)の合計183名。

主要配備
震洋艇の1型艇50艘、第二五震洋隊が基隆に移された後、18艘が加わり、合計68艘になった。

震洋24隊搭乘員(寫真集人間兵器震洋特別攻擊隊下卷)

(翻訳終わり)

出撃前の人たちも、こんな素晴らしい海や空の景色を見ていたのでしょうかね。

青い空、群青の海、ザブンザブンと波の音、強いけど爽やかな風、自分の他にほとんど誰もいない開放感。突然視界に飛び込んで来た奇妙な雰囲気の船。いくつかの案内板のひとつにカミカゼと言うカタカナの文字を見つけた。自分では遠い遠い異国の海の彼方の小さな島にやってきたと思っていたんだが、自分と必ずしも無縁では無いものに出くわしたという、驚きに似た感じだった。偶然に知ったのではあるが、私はこの人達がここにいたことを決して忘れないでおこうと、そう思った。

(軍の知識がないと分からない用語があるようだ。誤訳があるかもしれない。)

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