不自由の中の自由 台湾 国家人権博物館にて
台湾の離島、緑島にある人権博物館の展示の最初の一コマは「不自由の中の自由」という言葉で始まっていた。
「政治犯」の収容所生活の一体どこに自由があるというのか?
意外な感じを受けた。しかし、記述された内容を読んでいると、言い得て妙だなとも思った。
展示によると点呼の後、就寝・消灯前に少しの、15分ほどの時間があり、それは各自の自由時間であったとのこと。ここでの息の詰まる日々を、「不自由の中の自由」を一つの支えとして生きながらえたのだろう。生還できた人もいれば、命潰えた人もいたようだ。
自由が人にとってどれほど大切なことなのか、それを浮かび上がらせてくれているようにも思った。そして、旧ソ連時代の強制収容所ラーゲリの人々を描いた小説「イワンデニソビッチの一日」(ソルジェニツィン)を連想した。
主人公の男がアルミ線から自作・鋳造したスプーンを靴下のなかに隠し持ち、大切にしていたことを思い出す。自由を制限された生活のなかに自分のこだわりを持ち続けたことが「生き生きと」描かれていた。
人としての尊厳
極寒のシベリアか、南国火の島かという大きな違いはあるが、自由を奪われた抑圧的な環境のなかにあってなお、自由な「空間」、自由な「時間」を捻出しようとすること、あるいは自由な「意思」を貫こうとする営みと読み取ることができる。そこに小説と博物館の表現とに相通ずるものを感じた。自由への希求。人とはそういう存在であって、そこに尊厳があるのではないだろうか、と我々に投げかけている様にも思える。
泥試合をやらない賢さ
そして、その時代の為政者やそれにつながる人々は、この国に確かに今も存在していると思われる。
しかし、この博物館の展示からは、責任追及であるとか、政治的攻撃を示唆することとか、受難者(政治犯)たちの恨み言とかを読み取ることはできない。
事実を淡々に
発生した出来事を事実として淡々と記録しているものと感じた。暗い歴史もしっかり記録し人々の記憶にとどめ語り継いでいくという姿勢だと思われる。私が国家としての台湾、あるいはその国民性を信頼する理由の一つが歴史に対する台湾人のこのような態度だ。将来これが崩れていくならば私の台湾観もまた変わって行くかも知れない。だが全く心配はしていない。
地区全体は綺麗に整備されていて、朝などは人権公園に家族連れで散歩にくる人など、健康的で明るく爽やかなエリアとなっています。人権という主題から離れても訪れる価値はあると思います。ぜひぜひ訪問することをお勧めしたいです。