北の海賊ヴァイキング〜vol.3 『スカンジナヴィア内外の町建設と産業』〜
こんにちは、北欧情報メディアNorrの管理運営兼ライターをやっております、松木蓮です。普段はデンマークの大学院に籍を置きつつも、北欧に関する発信をしています。
今回の連載ブログは、「北の海賊ヴァイキング」と称して、書籍に基づいて彼らの歴史を紐解いていこうと思います。参考文献は「Viking Age: Everyday life during the extraordinary era of the norsemen」です。2019年の夏、ノルウェーの首都オスロにあるヴァイキング船博物館にて購入した一冊です。
今回は、前回に引き続いて、参考文献の第2章「Economic Life」より、今度は「町」に住んだヴァイキング達の経済活動や産業についてみていきます。本書の順番に倣って1つずつまとめていきます。
↑ヴァイキング船博物館(オスロ)にて
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スカンジナヴィアに関わらず、当時はどこもその土地、その土地の利を生かした生活様式を取っていました。産業で言うと、多くのヴァイキング達は農業を生業としていました。とは言え、地域によって若干異なっていたようです。今でいうデンマークとスウェーデンの沿岸部では、集落化した暮らしで3つほどの農場が束になって生活を共にしていました。この辺は肥沃な土地も多かったようです。一方で、スウェーデンの内陸部とノルウェーの大部分では、孤立した村がいくつもあったようです。
そんな彼らの生活について、「町社会」と言う観点から見ていきましょう。余談ですが、「町社会」について、本書では「Urban life」と表記されています。ただ、直訳した「都会」と言う言葉はどうもそぐわない気がして、便宜上人口規模に合わせて「町(=town)」と意訳しました。
▼スカンジナヴィアを代表する町
ヴァイキング時代の多くの人々の生活は、現地に紐付いた農業や漁業、狩猟を生業としていました(これは前章でご紹介したような暮らしです)。自給自足型とでも言えましょうか。基本的には彼らの生活はこうしたことを中心に回っていました(冬の間に航海は難しいのと造船などにも時間がかかるので)。
それから、もう1つは外の世界と紐付いた生活です。ヴァイキングの代名詞にもなっている「略奪」をしたり、略奪によって獲得したもの(金や硬貨など様々)を他の地域で売買する、いわゆる「交易」をしていた人(交易商人)もいました。彼らはスカンジナヴィアの外の世界に足を踏み入れて活動していました。こうして交易を続けていくと、モノや人が集まるところは必然的に形作られていって、「村」から「町」へと規模が大きくなります。それでは、実際にどんな所にどんな町があったのか見ていきましょう。偶然か必然か、今日のスカンジナヴィアの国から1つずつご紹介します。
▼デンマークの『Hedeby』
まずは、デンマークより。Hedeby(ヘーゼビュー)という町がスカンジナヴィア最南端の商業都市として栄えました。で、ちょっとここで混乱させてしまうかもしれないのですが、この地域って今はドイツ領なんですね。Hedebyがあるのはユトランド半島中部より南、シュレスヴィヒ地方です。
↑Hedeby簡略図(筆者作成)
コラム〜『なぜ、Hedebyはデンマークにないのか?』〜
このパラグラフは、補足として歴史好きの方向けに書きますね。なぜ、デンマークにないのか。ヴァイキング時代から離れて、ナポレオン戦争以後の話です。ドイツとの国境付近に位置するシュレスヴィヒ〜ホルシュタイン地方というのは、領土帰属問題がありました。どちらもデンマーク王国に属していたのですが、元々ホルシュタイン地方はドイツ人が多数派だったり、シュレスヴィヒにもドイツ人が混じっていたりしていたんですね。要は両地域に混在していたんです。で、ナポレオン戦争以後のナショナリズムの高揚で分離独立を求めるように。プロイセンとのデンマーク戦争で敗北を喫し、両地方とも失いました。これにより、デンマークは国土の40%ほどを失ったまま時は流れ、第二次世界大戦まで続きます。ご存知の通り、先の大戦でドイツは大敗します。以後、民族意識が高揚し、デンマークはシュレスヴィヒ地方を南北に分けたときの北部を奪還し、以来そこが両国の国境線として定められています。今回のHedebyという町は、今でいうシュレスヴィヒ南部にあるため、ドイツ領であるということです。ちなみに、このHedebyは「ヘーゼビューとダーネヴィルケの境界遺跡群」として、ドイツの世界文化遺産に登録されています。(コラム参照:『世界史の窓』より)
圧倒的にコラムが長くなってしまいましたが、Hedebyについて簡単に触れておきましょう。スカンジナヴィア最南端の商業都市として、交易の中心部になっていたHedebyですが、これは立地がよかったからだそうです。アイダー川が近くに流れていて、北海に繋がっているので東西の移動がしやすい。それでいて、ユトランド半島の南北にかけての陸路もできたので、そりゃ交易しやすいわなという感じですね。
半円型の塁壁が1.3kmに渡って作られていて防御力もそこそこありそうな感じです。モノも溢れて、安心して定住できたので人も集まり、1000人規模の町だったそうです。そんなこともあり、どうやらHedebyは各地の交易商人達の要衝であり、中継地であったよう。その交易というのは、ヴァイキング間でもそうですし、国を跨いだ近隣諸国との交易の中心でした。Hedebyに住んだ人は非農業従事者であったようで、これもきっと交易商人達の溜まり場になっていたのかなと推測できます。同時に、前章で取り上げたようにあくまでもヴァイキングは普段は農家なので周辺の村集落で農業をして、収穫物をHedebyに売りに来てたのでしょう、きっと。
▼スウェーデンの『Birka』
続いて、スウェーデンで栄えたヴァイキングの町Birka(ビルカ)について。まずは立地から確認しておくと、ストックホルムの西側近郊に当たるエリアです。メーラレン湖という場所に浮かぶ島で、そこで発達した町です。先ほどのHedebyに対して、スカンジナヴィア最北の商業都市として栄えたBirkaは、バルト海沖の交易で特に重要でした。
↑Birka簡略図(筆者作成)
Hedebyには劣るものの、多くて800人ほどが住んでいた(500〜700人が相場)ようで、Hedebyとは城壁の作りなどで類似点も多かったそう。ちなみに、Birkaにある遺跡は「ビルカとホーヴゴーデン」として世界文化遺産に登録されています。ここから出土したものとしてわかっているのはこんな感じ。
陶器・ガラス:ラインラントより
硬貨:東西ヨーロッパより
絹:中国
※ラインラントとは、フランス、ベルギー、ルクセンブルクと国境を隔てている地域で、現在ドイツ領。かつてフランスとの係争地域であったことで知られる。
ヴァイキング時代に北で繁栄を謳歌したBirkaですが、970年ごろに徐々に廃れていくことに。その理由は諸説あり、土地の隆起によって強みであった海路に支障をきたしたから、それからバルト海沖での交易拠点として重要でなくなってしまったからとされています。
交易品で気になるのが、絹ですね。中国からのものであると推測されているのですが、直接交易していたとは考えられないので、遥々、人から人に渡ってBirkaまでやってきたのでしょう。
▼ノルウェーの『Kaupang』
最後に、ノルウェーの町Kaupang(カウパング)について。ノルウェー南部で栄えた交易拠点で、今でいうオスロの南部に位置します。先ほどのスウェーデンのBirkaよりも微かに南に位置しています。どうやら、ノルウェー北部より南下してきたヴァイキング達の中継地点となっていたようで、それこそデンマークのHedebyの道中でKaupangに寄っていたと言うことが考えられます。
↑Kaupang簡略図(筆者作成)
セイウチの象牙なんかは良い例です(ノルウェー北部に生息)。毛皮などもあるようで、狩猟を生業としていた北部のヴァイキングらが持ち込んだものと考えるのも妥当です。
HedebyとBrikaと異なるのは、その地形。両者は壁を作って防衛をしていましたが、Kaupangは丘に挟まれるような地形柄、防御壁を作る必要がなかったそう。が、このKaupangはヴァイキング時代に海抜が2m下がったことで、航海などに不適になり、衰退していきました。
▼その他の町建設
これまでご紹介したように、Hedeby、Birka、Kaupangはヴァイキング時代に特に繁栄した町でした。そうした町の繁栄に伴って、他の地域でも発展した町がちらほらあります。中でも、Ribe(リーベ)とÅrhus(オーフス)は、先の3つの町に加えて、西暦1000年よりも以前に史実を確認できる数少ない町です。
Ribe:ユトランド半島中西部。現在のEsbjerg(エスビェア)の南近郊に位置。8世紀中頃に建てられたとされ、デンマークの中で一番古い町であるとされる。出土されたものより、金属加工、靴作り、織物、くし作り、グラスや琥珀の数珠作りなどの産業の存在が推測される。交易地はドイツとオランダ。
Århus:ユトランド半島中東部。10世期半ば建設。948年に書物で記述あり。出土品である木の彫刻や秤や重りの存在はバルト海、ラインラント、ノルウェー、スウェーデンとの交易の証拠をほのめかす。ちなみに、現在の正式な綴り表記は、『Aarhus』でデンマーク第2の都市として知られる。標準化のため2011年よりÅrhusからAarhusへ変更。
こうした発達に後押しされるように、1000年頃からぽこぽこ町ができ始めました。国別に見ると、こんな感じ↓
デンマーク🇩🇰:Viborg, Odense, Roskilde, Lund
スウェーデン🇸🇪:Sigtuna, Lödöse, Skara, Västergarn
ノルウェー🇳🇴:Bergen, Oslo, Trondheim(Nidaros)
↑スカンジナヴィア簡略図(筆者作成)
*Lund(ルンド)は現在スウェーデン領ですが、スウェーデン南端部一帯(Skåneなど)はデンマーク領でした。
▼スカンジナビア”外”の町建設
スカンジナヴィアにポツンポツンと小都市を建設しただけでは、野蛮で有名なヴァキングの血が収まりません。北欧神話の主神オーディンに駆り立てられたの冒険者達は西へ西へとオールを漕ぎます。そして、略奪や交易を繰り返し、スカンジナヴィアの外に自らの拠点を開拓していきました。
Dublin(ダブリン🇮🇪)、York(ヨーク🇬🇧)、その他の町についてご紹介します。
Dublin🇮🇪:ヴァイキングによって10世紀半ば頃に建設されました。急速な繁栄を遂げ、北海周りの交易商人にとって重要な拠点に。奴隷貿易の市場が大きかった。その他、毛皮、織物が輸出品として重要であった。最近の研究では、木の彫刻、靴作り、くし作り、造船、鉄鋳造、銅鋳造、革製品などの職人産業の存在が指摘されている。輸入品は、セイウチの象牙、琥珀、陶器、ガラス、その他その装飾品など様々。交易相手は、スカンジナビアやイギリス、大陸ヨーロッパ、中東。アイルランドではダブリンの他、Limerick, Cork, Wexford, Waterfordなどがあったものの、ダブリンほどの要衝にはならなかった。
York🇬🇧:イングランドにおけるヴァイキングの拠点はヨーク。866年にヴァイキングによって封鎖された。スカンジナヴィアはもちろんのこと、西ヨーロッパや中東、地中海地域との交易実績あり。ヨークは製造業で有名で、特に製鉄業が盛んであった。
東ヨーロッパ:スウェーデン人が主に開拓。バルト地方南部はヴァイキング時代以前から交易拠点があったよう。ポーランド(Wolin🇵🇱)、ラトヴィア(Grobin🇱🇻)などがあるが、ヴァイキングが建設したのかは疑われている。
ロシア周辺との関わり:スタラヤ・ラドガ(Staraja Ladoga)、ノヴゴロド(Novgorod)、グネスドヴォ(Gnesdovo)、キエフ(Kiev)との関わり合いはあったようだ。こうした町を統治下にした時期はあり、ビザンチウムまでの航路(ドニエプル川流域から黒海)として利用していたよう。が、建設に関わっているかはわかっていない。
↑スカンジナヴィア’外’の町簡略図(筆者作成)
▼町における職人・産業
町に住んだ人々の生計の立て方は2通りだったようで、「商人」をやるか「職人」をやるか。簡単に言うと、モノを売るか(=商人)、そのモノを作るか(=職人)で分けられたと言うことですね。
職人(Artisan)も2通りに分けられて、①クラフトマン(=作ったものを売って生業にしている=男性に多い)②物づくり人(=個人的用途、家庭用で作る=女性に多い)と性別でもなんとなく分かれていたそう。
製鉄技術は重要で、鍛冶屋は特に重要な役割を果たしました。なぜなら、そうした技術(金属製造・修理)や器具自体を持っている人は限られていたからです。鉄は、日常で使う道具を作る材料であったり、それこそ武器として加工されていたので、極めて重要であったんですね。前章の町社会で余談としてご紹介した通りですが、特にスウェーデンとノルウェーにて鉱山は多くあり、鉄資源に恵まれていました。近代になってそれが加速し、中には世界遺産に登録されている製鉄所や鉱山街もあったりします。
職人ということですが、剣の柄の部分や、馬の鎧(あぶみ)、拍車(乗馬で足を置く部分)などには入念な装飾が刻まれたりしていたそうです。
他の金属も装飾品などで使われていました。黄銅はスウェーデンで取れて合金することで錫(すず)や鉛などを生成していました。青銅も一般的だったようです。金や銀は取れないので輸入していたとのこと。
日用道具は村社会と大体同じで、鹿の角を使ってくし作りや矢の先端部分を作って理、ナイフの持ち手としても使われたり。その他動物の角は、(おそらく中をくり抜いて)飲み物を飲むときの器として使われていました。
琥珀はバルト地方南部とユトランド半島南西部で採れました。用途はペンダント・ビーズなどの装飾品。実際に、Ribe(リーベ)では1.8kgの琥珀が出土しているようです。
木を使った仕事はそこまで特別なものではなかったよう。が、造船やその管理、それから大きな家や教会の建築などには相当な技術とトレーニングと経験を要したので、熟練した職人がいたことを意味します。確かに、20〜30人乗りの船で北海を超え、イギリス、フランス、さらには地中海、アメリカ大陸まで航海していたので、当時にしては相当な技術があったのではないかと思います。
箇条書きのような感じで駆け足で町の産業や職人についてまとめました。この辺は村社会と大体同じですが、加えて交易をしていたというのが町社会の特徴です。
▼この章のまとめ
ヴァイキング時代に特に発達した町を紹介しました。どれも地の利を活かして、それぞれ繁栄していたようですが、1つ面白いなと思うところがあります。
いずれの町も現在全く知られていないということです。僕も今回の参考文献を通して知った町が多かったです。つまり、ヴァイキング時代に栄えた町は以後続くことなく、中世、近代では異なる町が台頭し、今に至っていることがわかります。デンマークで言えば、Hedebyは今の首都コペンハーゲンとかなり遠い距離にあります。
これはスカンジナヴィアに限らず、歴史的な事例が少なくなさそうです。我らが日本も大和朝廷は奈良を中心に覇権を牛耳っていましたし、幕府で言うと江戸幕府まで現在の東京は拠点になっていません。中国史では、かつて長安や洛陽、南京などが首都になっていて、北京が首都になったのは17世紀以降の明清時代です。
なぜ存続が難しかったのかと言うことについての要因は何か?技術の発達なのか、気候的な要因が大きいのか、こうした観点から勢力分布を考察してみても面白そうですね。
この章はスカンジナヴィア内外の町について焦点をあててご紹介しました。今回の話をまとめると、以下のイラストになるかなと思います。
↑ヴァイキング時代の主要都市簡略図(筆者作成)
さすが、北の海賊ヴァイキング。いとも簡単にイギリス、アイルランドで拠点を作ってしまっていたんですね。次は、こうしたスカンジナヴィアの域を超えたネットワーク航路について深掘りしていきます。
それでは!Vi ses!!
参考文献:
Wolf, K. (2013). Viking Age: Everyday life during the extraordinary era of the norsemen. Sterling Publishing.
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