イムムコエリ 1
母の死
私が2歳の時に家族は団地に移り住んだ。
山や森を切り開いてできたばかりの新しい街には大きな建物が20棟以上も並び公園や商店も整備されていた。そこは流行の生活スタイルを集めた憧れの場所だった。幼い私は新しい家で「広い、ひろい」とはしゃぎまわった。母のお腹にはもうすぐ生まれる妹がいた。
私たちは幸せいっぱいの家族だった。
母は山育ち。一緒に近くの山へ行くと草や木の実の名前をおしえてくれた。食べられるもの、ヘビの除け方、雨の近づく気配、山道での足のかけ方・・何度もくりかえし飽きずにおしえてくれた。
明るく編み物が得意で働き者だった。
面倒見がよくて困っている人をみるとそっと手を差し伸べた。
小学校4年生の頃のこと。夜中に目が覚めると仲良しの友達が来ていた。
母が「内緒で泊まりに来る約束をしたのよ」と笑う。
嬉しくって一緒の布団にくるまった。
翌朝その子が帰ると母は私にこう言った。
「あのね、きのう〇ちゃんはお父さんとケンカして・・・されたの。
だから今日は何も聞かないであげてね」
・・・のところで両方の頬をぶつ仕草をした。
そのひどい出来事を怖がらないように母は上手に伝えてくれた。
それ以降母はこの日の話をしなかった。
ずいぶん後になって友達が打ち明けてくれた。
父親に叱られて初めて殴られたのだと言う。
思わず家を飛び出して真っ暗な夜道を歩いて来たらしい。
どんなに心細かっただろう。
そしてそれを黙って受け止めた母を誇りに思った。
そんな母がだんだん壊れていった。
子育てが一段落して母は働きにでるようになった。
電車に乗って遠くにある工場の仕事に就いた。
無理をしていたのだろうか。しばらくして体調を崩し入院した。
退院してからも臥せっていることが多くなった。
一日中カーテンが閉まった暗い部屋。
学校から帰ると物音を立てないようにビクビクして過ごした。
毎日のように父と言い争うようになった。
母の容体はどんどん悪くなる。
泣いたり叫んだり正気とは思えない話をする。
けれど母は本気でおびえて苦しんでいる。
母に何が起きているのか私にも父にも分らなかった。
心を病んでいることを人に話せる時代ではなかった。
母に振り回されながらみんなが疲弊していた。
こんなお母さんなんかいらない。母のことが嫌いになっていく。
いつ頃からか母は仏壇に手を合わせるようになった。
体調の良い日にはまた一緒に山歩きもした。
ふいに「あんたたちがお嫁に行くまでは絶対に死なないからね」と明るく言う。怖くて泣きだしそうになるのを必死でこらえた。
夕飯の前になると「料理をおしえてあげる」と呼ばれウインナーの入った野菜炒めを一緒に作った。
「上手ね」と褒められ嬉しくなる。
でも「こんなにできたらもうお母さんはいらないわね」と言われてたまらなく不安になった。
6年生の夏の終わり、引っ越しの話が持ち上がった。
父の会社に近いところに行くという。
母は吹っ切れたように明るく楽しそうだった。
あと半年で卒業なのに。
さんざん泣いたけれど聞き入れてはもらえなかった。
3日後に引っ越しを控えた秋の日。
その日は学校の行事で給食が終わると帰宅することになっていた。
朝、母から新しい制服のスカートを渡された。
丈を合わせていないスカートは引きずりそうな長さだった。
卒業が近いからとずっと買ってくれなかったのに。
気まぐれな行動に腹を立てて「行ってきます」も言わずに家を出た。
昼、家に帰ると妹の泣きじゃくる声が外にまで響いていた。
お母さんに怒られたのかな?うんざりして家に入った。
私を見ると妹は「お母さんが、お母さんが」と繰り返す。
その指さす部屋へ入っていくと母が布団の中で息絶えていた。
言葉も涙も出なかった。
死んだ人を見るのは初めてのはずなのに「死」を理解していた。
枕元に座り布団の中の手に触れる。
一番好きだった母の手はまだ温かかった。
けれどその手は家族の写真ではなく毎日読んでいた経本を抱いていた。
連れて行ってくれなかったんだ。
捨てられたような気持になった。
遺書を残さずひとり黙って母はこの世を去ってしまった。
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