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大分・いつか誰かの光になる

2年ぶり、二度目の大分集合。
前年の秋に完成したちーちゃんの古民家カフェで戯れる。

古い蔵だった場所は丁寧に改装されて雰囲気のある古民家カフェに生まれ変わっていた。建物も土地も喜んでいるような気がしたよ。

今回のテーマでも「〇」の話で盛り上がった。

荘園の里に上る満月
姫島の海岸で見つけた逆さ虹
幻日
洋服やカバンの模様たち。。

何度も繰り返された〇のテーマは思えば自己肯定のレッスンだった。
旅が終わってからも何度も〇について思い出したりしていたから
足掛け2年はこんなふうに自分を認めるための時間を過ごしていたことになる。

自己肯定・自分を認めるってなかなか難題だな。
それでも少しづつ認められるようになって、受け入れて、進んできた。

そしてこの旅ではひとつプレゼントをもらった。
ちーちゃんの友人が私と同じガンになったのだという。
そして彼女に私の話をシェアしたときに
「その話が光になって勇気がでたのよ」と言ったそう。
それをきいて、あっと思い出したことがあった。

ずーっと以前、30才くらいの時に願ったこと。
「私にできたことはあなたにもできること。
そんなふうに苦しいことを乗り越えていつか誰かの光になりたい」
そうだった。
そんなことを願いながらなんとかその日一日を乗り越えていたことがあった。
「私はやっと光になれた」
当時のメモにそう書いてあった。



あんなに強く願っていたのに苦しいことを通り越すと忘れてしまう。
この大分の旅からさらに10年以上が経過した今、
私はまたすっかり忘れていたこの願いを思い出している。

自分の体験を誰かに伝えることなんて何の意味もないと
思ってしまっていた。
きっとそんなちっぽけな経験は誰にでも起きていて
わざわざ伝える必要なんてないって思ってた。
そう言い聞かせてきた。

でも。

それって自分のことを否定してるよ。
私が経験したことは私だけのものなのに。
何もかも全く同じって人はいないはずなのに。

ヘンだよね。

似た経験や似た考えがたくさんあってもいいはずなのに。
たくさんあるってことはそれだけ同感する人がいるってことなのに。

光になるなんておこがましいと卑下してきた。

いつの間にかたった一つしかない太陽にでもなろうとしてた?
始めに描いた光景は
暗いトンネルのずっと先にポツンと灯る
小さなともし火のような光だったはず。

何も見えない中にいてもその先に小さなともし火があれば
それを頼りに歩けるはず…
同じような状況を乗り越えた人がいるって知ったら
少しは希望が持てるはず…

そんなふうに始めたはずなのに。


今の私はこう思う。

小さなともし火はたくさんあったほうがいい。
たくさんあればそれだけ道は明るくなる。
たくさんあるともし火の一つになることから始める。
ひとりひとりが光になれる。
なりたい人がそうなれる。

わたしにできたことはあなたにもできること
そう伝えられるような生き方をしたい

そして自分の未来を設定し直した。
何度でもやり直していいと思えたから。







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