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洋服記録104_確信犯的アムネシア

想定外の悲しみや驚きに遭遇した時、
どのように対処するのが適切だろうか。

思いっきり感情を爆発させたり、逆に冷静でいようと努めたり、
人によって対応や考え方は様々だと思うが、
小心者かつ自己保身欲の強い私が取る対処法は、ただ一つ。

全力で知らかなかったことにする。

これに尽きる。

例えば思わぬところで自分の良くない噂を耳にした時、
悲しい気持ちになるし、怒りも沸いてくる。
同時に、噂の発信源はどこなのか、
この話がどこまでの範囲に拡散されているのか、
事実をはっきりさせたい、という気持ちも芽生える。

だがそれ以上に、
自分がこれ以上傷付かないための鉄壁の防御線が張られ、
嫌なことを思い出さなくて済むように頭の中に消しゴムが登場し、
都合の悪いことを一切無かったことにしようとする。
この時、たぶん、
どんな学会でも未だ報告されていない、
異常な過保護物質が脳内に分泌されているのだと思う。

徹底して自身の心の安定を優先するこの動きは、
その噂話に多少事実が混ざっていたとしても、
それが事実であること自体を忘れさせるほど。(さすがにやばい)

私はこの現象を、
自己保身が強過ぎるあまりに起こる、
「確信犯的な記憶の消去」と呼んでいる。

この暴挙が発動される最たる例が、
人の死に直面した時である。

私はこれまで何度か親族や知人の死を経験しているが、
自分の記憶にある限り、
通夜や葬式といった場で涙を流したことはないと思う。
これは幼少期の頃からなのだが、
周囲がどれだけ哀しみに包まれていても、
ケロッとした顔つきで、淡々と行動してしまう人間であった。

直近では数年前、
子どもの頃にたくさん可愛がってもらった叔母が亡くなったのだが、
案の定、私は涙を流さず、
無駄に明るく、無駄に素っ気なく、その場に身を置いていた。

自分でも、なんて薄情なんだろうとか、
人としての大事な感情が欠落しているのではないかとか、
いろいろと不安も覚えるのであるが、
それでも帰り道に一人で歩いている時や、数年後に一人で布団に入った時、
急に濁流のように悲しみが押し寄せて、
嗚咽をあげながら大泣きすることが度々ある。

そんなに泣くならば、
故人の前で涙する方が圧倒的に正解だという自覚はあるのだが、
人前で自己保身のバリアを解除することが、
私にとっては非常にハードルの高いことなのである。

つい先日、
出張で新幹線に乗っていた。

目的地に着く直前、自席で荷物を整理していたら、
着ていたワンピースが日傘の金具に引っ掛かり、
慌ててレースの絡まりを外そうとした。

その時、突如、
幼少期の自分と叔母の姿がフラッシュバックした。

あれはどこかの駅だったと思う。

前から歩いてきたカップルとすれ違った直後、
女性から「おばちゃん、ちょっと待って!」と呼び止められた。
見ると、叔母が片腕に抱え持っていた日傘の金具に、
カップルの女性が着ていたカーディガンが引っ掛かっていた。

繊維が伸びてしまったことに申し訳なさそうにする叔母と、
全然大丈夫ですよ~と明るく返す女性の対照的な表情を、
間で見上げていた幼少期の自分が蘇る。

その瞬間、
ぶわっと涙が溢れ出てきた。

説明のできない感情と、
得体の知れない何かがこみ上げてきて、
涙が止まらない。

そしてやっぱり思う。
こんなところでこんなに泣くのであれば、
叔母の前で感謝を伝えるべきであったし、
傍らで泣き崩れていた叔父と一緒に涙を流すべきだった。

やはり私には、
なにか重要な感情が欠落しているのだろう。
そして、不必要なほど強固に、
自分が傷付くことへの恐怖があるのだろう。

思わぬ事象が記憶の鍵となり、
鉄壁の自己保身が崩れ去った日。

叔母のように日傘を片腕に抱え、
花束のように持ち歩く。

レースのコーディネート備忘録

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