山崎ゼミ卒業制作について (展示篇)
こんにちは。映像学科の山崎連基です。前回の上映篇から引き続き、
「展示篇」お送りしたいと思います!
今年はゼミ生22名中、展示と上映でちょうど均等だった。展示作品と上映作品を対置しながら、その類似性や差異についてゼミでは議論できた。私自身も多くの発見と言語化ができたように思う。実践者の言葉と経験は、深度と広がりが違う。
展示と一言で言っても、上映以上のさまざまな領域が乗り入れている。
大別すると、ゲーム、映像インスタレーション、衣装、短歌、演劇、写真、アッサンブラージュであった。
ゲームの困難さと、未来
今年は山崎ゼミからはゲームとその周辺領域を射程とした3作品がエントリーされた。映像学科にはゲーム領域は不在だ。けれど、映像とゲームの接地面は豊潤であることは間違いない。これからの映像学科がゲーム領域とどのように向かうか。それはムサビ映像学科が全方位教育を標榜する以上、避けては通れない頂(いただき)だ。
ゲームには「ルール設計」、「実装」、「操作性」、「体験」、「世界観」、などいくつかの観点があり、映像作品単体よりも考慮すべき点が多い。
リール:メンテナンス (菊池 優里)は、「世界観」と「ルール設計」という2点を見事に構築した。
主人公であるアンドロイドは、帰らぬ人となった主人との関係を更新できずに、主人のために川で釣りを続けている。しかし、川魚をいくら釣ってもアンドロイドは食べることもできなければ、主人に届けることもできない。そこで、周囲に住む村人へ川魚をお裾分けをすることに。
釣りゲームという(ありふれた)遊戯性と、アンドロイド=AIという時代性、それから他者とのコミュニケーションを繋げるルール設定と世界観の調和は美しい。そして切なくもありながら、どこかユーモラスで居心地のよい孤独に寄り添うゲーム性に感涙した。
Encroachers(大瀧 佳実)はステルスゲームとFPS、お掃除という要素を「実装」させた。これは簡単なことではない。他方で「ゲーム」という形式をメタ化する試みもなされている。通常であれば無かったことにされる、「バク」をゲーム内に掃除すべき対象として実装させた。その清掃手段もグリッジ的表現を用いており複層的鑑賞も可能になっている。バグ自体を掃除するというコンセプトは、既存のゲーム機能から世界観を拡張させ、増築してく手捌きにゲームクリエーターとしての知性を感じさせた。
『メモライズ 』(コ ミンソク)は自身の体験を元にゲームを構築した。その体験は兵役だ。大韓民国における兵役という制度を、記録写真をもとに追体験させる。社会と私をゲームで繋ぎ、私的な体験を普遍的なメッセージへと昇華させる試みだった。ゲーム制作における民主化がすすみ、個人でもゲームを作れる時代になりつつある。そんな時代に、いわば私小説ともいえるゲームが生まれたことは、映像学科にとって意義のあることに違いない。「ルール設計」、「実装」、「操作性」、「体験」、「世界観」すべてがある閾値を満たし、映像学科におけるゲームの困難さと、未来を示した。
眺める映像
今年度山崎ゼミへ集った学生には上映を主軸におきながらあえて展示に取り組んだ学生もいた。映像がYoutubeやVimeoなどプラットフォームで簡単に伝播できる時代にあって、あえて”映像の場”を設けて、映像を鑑賞するとはどのような価値が生じ得るのか。実践を通じてゼミ生の熱いやり取りがあった。
『日』 (堀 清蘭)は、タイムラプスで映像を切り取り、映像展示を試みた。展示空間には、プライベートスペースとしての小屋を造作した。その内部には映像をまるで写真のように配した。それはディスプレイでありながら、窓としても機能しているようでもあり、採光としての面のようにも感じられた。暗いが、日を感じる空間を立ち上げた。また小屋自体がカメラの機構を黙示しているとの指摘が講評時にあった。
『眺望 』(古森 可音)は、眺めるという行為と、投影という原理を、裏表の関係に据えながら映像によるインスタレーションを展開した。また認識主体の解釈や図像化、言語化のわずかなズレを企図した。”眺める”と”投影”が表裏であることと、”眺める”≒”撮影”≒”カメラ”という読み替えも示していたのかもしれない。眺める映像を眺めていた。
『うたとうた』 (酒井 彼大)のタイトルは、歌と詩に対応している(と思う)自らが詠んだ短歌から楽曲を制作。さらにその楽曲には短歌とは別にリリックも改めて作成する。そしてそれらの世界観に順応したビジュアルを作成して、4枚のディスプレイに構成した。言語と映像と音を縦横無尽に行き来いしながら、それらの”あいだに”ある詩情を紡いだ。文字を眺めながら、文字を聞いていた。
日常と非日常
服飾、衣装といった作品も生まれた。それらの領域が映像学科に内接しているというよりも、少し外側にいわば外接していなくもない。映像が現実の一部になりつつある今、映像に関係しないものはないのかもしれない。
『prose』 (菅原 静樹)は、生活のようなものにフォーカスし、自分にとって居心地の良い場所や、環境についてリサーチを進めた。それは、映像がかつて非日常を味わうための装置から、一部の映像は見ても見なくても良い、日常の中に紛れ込む存在へと変容しつつあることに、無意識的に反応したのかもしれない。いずれにしても菅原は生活から服飾へとピントを合わせていった。そして彼が提示したものとは。
『mirrormorphose 』(松尾 緒美)は衣装を4体仕上げた。日常的に纏うドレスなどとも違う非日常を招聘するものとして、”衣装”を位置付けた。それぞれの衣装には制作のきっかけとなるモチーフはあるものの、それは創作物には直接的には示さず、バラバラでありながら一貫した世界観としての衣装を仕上げた。また衣装を彩るための写真(を用いた映像ともいえる)や楽曲を添えた。大学キャンパスという日常に非日常を出現させた。
映像のかたわらで
映像学科に在籍しながら、最終的な成果物が必ずしも映像に依拠しない場合も少なくない。領域横断に一定の価値を見出していた時代には、領域横断が難しいという共通認識があったからだ(と思う)。翻って2025年現在領域横断はヤンゴトナキ行為であり続けるのだろうか。
『マニュアリズム』 (柴田ありす、伊能幸輝)は演劇作品だ。映像学科では演劇作品は例年ある一定数が挑む。お芝居、演出など映画領域との関係性が深いことから演劇作品が生まれることはもしかすると必然なのかもしれない。今回はムサビ空間演出デザイン学科太田ゼミの学生とのコラボレーションによって生まれた。お芝居はAIコンタクトレンズなるものがある世界。AIコンタクトを装着することで、滞りなく極めて効率的に業務を遂行することができる。いわば完璧なマニュアル人間になれる。そんな世界で、主人公はコンタクトレンズをつけるかどうかを逡巡する。果たして主人公の決断やいかに。卒業制作展以外でも公演の予定があるそうなので是非。
https://www.play-campanella.com/stage
さまよえる成木 (中里 雲詩)は写真作品だ。写真作品ではあるものの、一種のパフォーマンスの記録でもある。当初卒業制作に際して(もっと以前からではあるが)採石場の休憩所に作者は居心地の良さを覚える。その休憩所に通いながら関係性を築いてインタビューや写真を収めていった。しかしある日突然その休憩所はなくなってしまう。その喪失は卒業制作まで二ヶ月を切ったタイミングだった。中里は途方にくれながら、かつてそこにあった”居場所”の捜索を開始する。
烏(鉄、250mm×450mm×400mm)(TAKE FREE) (渡邉 大樹)渡邉は、とにかく大きなものを作りたかった。2024年11月13日に突如としてプロジェクトは開始する。早朝7時の清掃時間に間に合うために朝の5時過ぎには家を出る。通学には2時間かかるらしい。それでも毎日かかすことなく卒業制作展が開始するまで、武蔵野美術大学の鷹の台キャンパスへ通い詰めた。早朝7時の大学は学生はおろか教職員もいない。キャンパスには清掃員さんと守衛さんしかいない。プロジェクト開始当初は、渡邉の活動を訝しんでいた人々も次第に渡邉に心を開いていく。いや渡邉も心を開いていく。
武蔵野美術大学で生まれた作品がゴミになる。その瞬間に渡邉はそれを拾い上げる。渡邉はゴミで作品を作った。それはとても大きな志になった。
(山崎連基)
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