ホロスコ星物語172
翌朝、目を覚ましたコエリは、自分が着の身着のまま眠ってしまったことに気付いて、少しだけぼうっとする頭をふらつかせながら、階下へと降りていきます。
リビングは薄闇に包まれていて、時間は、どうやらまだ太陽が昇り始めたばかり、東の空が白み始めた程度の早朝みたいです。それではさすがに誰もいないはず、と思っていましたが、長椅子に毛布を敷き、簡易ベッドの代わりにして横たわっているベスタの姿を見つけてしまって、その、無防備に閉じられた瞳に、少しの間だけ目線を送ります。
あの部屋に、内側から鍵を掛けて眠りはしなかったから、他に部屋がなかったとしても、帰ってきて眠ろうとすれば、眠ることはできたはずです。なのに、コエリを起こすまいと遠慮して、わざわざこんな寝心地の悪い長椅子をベッドに仕立ててまで、ベスタは下で眠ることを選んでくれた、、その気遣いに、少しだけ感謝をして。
正直に言ってしまえば、小恵理が目覚めるまでの間、ベスタとは数回に渡って衝突し、お互いに痛い思いもしてきましたから、警戒する心がなかったかと言えば嘘になります。けれど、さすがにその辺りにいる男のように、劣情に負けてしまうことはないし、危害を加えるようなこともしてはこなかった、、と。その事は、しっかりと記憶しておこうと思いました。
それから、台所を貸してもらい、顔を洗ってーー少しさっぱりしたところで、どこからか、何者かの視線を感じ、誰、と背後を振り返ります。
簡易ベッドのベスタはまだ静かな寝息を立てていて、彼からのものではありません。ミリアム、ヘレナ親子も寝室で、彼女らも、リビングへはまだ姿を現してはいません。
とすると、可能性としては、窓の外から家の中を除く不審者、、と。それも、こんな早朝の時間帯に。
困ったものね、とコエリは剣呑に笑い、音もなくリビングを横切ります。その可能性を考慮してしまって、おとなしく見過ごせるほど、コエリも薄情ではありません。この家にいるのは無力な母子の二人だけで、そこに手を出そうと言う不届きものがいるなら、相応の目に遭ってもらうまでです。
コエリは、ほどなく玄関の引き戸を開けて、まずはその場で、周囲の気配を窺います。
外はやはりまだ薄暗く、昨夜少し雨でも降ったのか、わずかな鉄の臭いと、しっとりとした空気が漂っていて、雨露を弾いた草木が、みずみずしく潤って、枝葉を大きく広げていました。
さて、とここでコエリはどうすべきかを思案します。不審者を探しに出るのはいいけれど、自分が外に出てから、逆にこの中を狙われるのが一番厄介です。かといって、闇魔術で地雷を仕掛けては、またミリアムに怯えられ、最悪、今度こそ嫌われてしまいかねません。
スピカほどではないとはいえ、やっぱり、可愛い可愛い妹同然の存在に嫌われるのは避けたいところです。コエリは一計を案じ、ひとまず外に出て戸を閉め、一歩、一歩と少しずつヘレナ宅を歩き出しーー、10メートルほども離れたところで、一瞬で振り返って、屋根の上へと跳躍します。
「っ!」
「なるほど、逃げ隠れをしてくれる気はなかったのね。良かったわ」
追撃して斬り殺さずに済んだから、と。コエリは、手に剣こそ持ってはいないものの、相手を完全に斬撃の射程圏内に捉えて、屋根の上にいた、傾斜に隠れるように身を屈めていた人物に、剣呑な言葉を吐いてみせます。
珍しい風体をしていて、白い、袈裟のようなだぼっとした衣服に身を包んだ、小柄な男、でしょう。鍛えられた両腕は肩から剥き出しで、頭にはやはり白のベレー帽のようなものを被っていて、深遠を覗き見るような、力強く深い瞳が印象に残ります。王都でもあまり見るような人種ではありませんが、小恵理の知識で言うところの、モンク僧、という単語が当てはまるように思われました。
腕を見るだけで感じられますが、戦闘能力は、見ただけでも低くはない、、むしろ強敵の部類に入るはずです。普通の人間基準で言うならば、ジュノー王子以上、戦い方によっては、セレスの父、騎士団長にすら匹敵するかもしれません。
少なくとも、自分にすら感じ取れないほど正確に気配を消して、この屋根の上に跳び乗れるだけの身体能力、実力を持っているわけで。油断なく目を光らせるコエリに、男は、驚いたのも束の間、ほとんど動揺することもなく、身を起こし、くぐもった低い声で、お前、と呼び掛けてきます。
「、、よく、気付いた。何者だ?」
「さあ? この近くには見ての通り、畑と農家しかないから。不審者が逃げ隠れできる場所なんて、最初から限られているのよ」
王都と違って、邸宅が密集していない分、他の家に逃げ込む、建物の陰に隠れる、といったことはできません。コエリの狙いが、不審者を探すことではなく、最初から不審者を家の中に逃がさないことに主眼が置かれていたのは、そういう理由です。
人の家の中をこそこそと覗き見るような変質者に、わざわざ私の素性を知らせる必要がある? と妖しい笑みを浮かべて問うコエリに、男は、苦々しい顔つきになって、首を横に振ります。
「私は、変質者などではない。お前が、、闇の気配がこの家に居座っていたから、何事が起きたかと様子見に来たまでだ」
「闇の気配、ね。つまり、あなたは光の伝道師みたいな人、と思っていいのかしら?」
話を続けながら、ある意味では予想通りの展開に、コエリは内心で自分の進退について考えます。
もし、この男が昨夜ベスタと話した、ブルンジアに関わるような人物なのであれば。それならば、おそらくはベスタにも会わせるべきではないし、邪魔者となるのはむしろ自分達の側です。あるいは、アルトナについて何か聞くことでもできれば、自分の役割は十分果たせたと言えるでしょう。
それとは別に、デネブの関係者なのであれば、、事情を話して、友好的にお別れしてしまった方がいいでしょう。おそらくは疵を抱えているであろう相手の過去に関わる必要はないし、いずれにせよ、自分達はすぐに村を離れるのだから、この母子を守ってくれる人物を、この家から引き離すべきでもありません。
コエリの問いかけに、男は、真贋でも見極めるようにコエリをじっと見つめ、お前は、、と目を細めて、逆に質問を返してきます。
「強大な、闇魔術の使い手だな。何故この家にいる?」
「昨夜、人助けをして、その縁でよ。こちらの問いにも答えてくれないかしら。あなたは、何者なの?」
「私は、、ヘルフリッヒ。お前の思った通り、闇を滅ぼす、光の担い手だ、、!」
すっ、と、コエリに手を翳し、ヘルフリッヒと名乗った男は、その両手に、力強い光魔術を纏わせ、白銀の光を宿します。
その構えは、いわゆる戦闘態勢でーーしっかり見極めていたように見えていたけれど、結局私は悪しき闇と判別されたわけね、とコエリは、少なからず落胆し、ため息をついて目を伏せます。
「別に、私はあなたがこの家の人間に害を成す気がないというのなら、争う理由もないのだけれど」
「お前の言葉に嘘は感じられない。だからこそ、争う前に今一度問う。どうやってこの母子に取り入った?」
「ふふっ、取り入った? ものすごい表現を使うわね。言ったはずよ、私は人助けをした、と」
疑うならその母子に聞いてみなさいな、とコエリは小さな声で、目を伏せたままうっすらと笑みを浮かべ、腕は下へと垂らしたまま、あくまでも戦闘態勢を取らずに受け答えをします。理由は、結局このヘルフリッヒもまた、ヘレナ、ミリアムの母子を守ろうとしているのだと感じられたから。
あくまでも不必要に争うべきではない、という構えでいるコエリに、ヘルフリッヒは、しばらく警戒を続けていましたが、やがて構えを解き、いいだろう、と頷きます。
「この場は、お前を信じよう。だが一つだけ言っておく。今は近くにはいないようだがーー我々は、魔族の見方をするものを許さん」
覚えておけ、と。コエリの足元と、おそらくはその下、ベスタをーー、その影を、睨み付けるように見やると、ヘルフリッヒは身を翻し、屋根から身軽に飛び降りて、思いのほか健脚を発揮し、朝焼けの空へ溶け込むように、その姿を遠ざけていきます。
その背を、遠く、山の彼方へと離れていくまで見送ってーーあれはつまり、疑っていたのは、レグルスの気配があったから、ということ? と。コエリは自分の影を見下ろして、自分ではその気配を感じ取れないことを見て、今のヘルフリッヒの言葉の意味を考えます。
確かに、しばらく前までレグルスとは同行していて、ベツレヘムの州都であるブルフザリア辺りから別行動を取っていたとは、聞いていたけれど、、そんなに何日も前に別れたような魔族の気配なんて、感じ取れるものなのかしら、と。
いや、、魔族の反応は、影だけではないわね、と。その心当たりを一つ理解して、ひとまず、コエリは地上に降り立ち、そっと戸を開けて再び家の中に戻ります。それから、まだ誰も起きてきていないことを確認して、足取りも重く、自室にと割り当てられた二階へと帰っていきます。毎度のことながら、闇魔術というだけで悪として扱われてしまうのは、どうしても心に響くわね、と心に、重く、暗い何かがのし掛かるのを感じながら。
私は、悪ではないつもりなのに、、と、コエリは、どこか疲れた気分でもう一度ベッドへと身体を投げ出し、額に手の甲を当て、大きく息をついて天井を見つめ、あのモンク僧、ヘルフリッヒの正体について考えます。
光の担い手、という言葉と、魔族を許さない、という言葉、、魔物ではなく、魔族を、許さない。そうなると、デネブの、クライストの関係者というよりは、やはり、ブルンジア、、あの男は帽子を被っていたから、髪の色での判別はできませんでした。
コエリは、その立ち去っていった姿を思い浮かべながら、もう一つため息をついて、ベスタが起きてきたら、今の話をすべきなのかしら、と考えます。
村長の前でブルンジアの単語を出した時の、ベスタの様子、、あの、鋭く冷たい目。ベスタがブルンジアについて他に何かを知っている、もしくは考えがあって、自分にそれを隠していることは、およそ感じ取っています。魔族と対立するのがブルンジアなのであれば、魔族と手を取り合いたがっているベスタとは、相容れるとも、引き合わせるべきだとも、思えなくて。
「もっとも、、あとは私の問題ではないわね」
もう、十分、と。コエリはそうポツリと呟いて、しばらく頭を空っぽにして身体と心を休め、やがて階下で人の動く気配を感じてから、もう一度起きて、階段を降りていくことにします。
「おはよう、早いのね」
「お姉ちゃん! おはよう!」
リビングでは、すでにミリアムが朝食の準備にと、食器や食材を揃えていて、コエリへ元気な挨拶を返すと、長椅子から身を起こしているベスタへ駆け寄り、おにいちゃんも、とうっすらと頬を赤らめながら囁いて、テンションも高くキッチンへと駆け込んでいきます。
その、上体を起こして額に手を当て、無言でミリアムを見送るベスタに、コエリは、あなたも、と声をかけます。
「おはよう、ベスタ。さすがのベスタも、朝は得意ではないのかしら?」
「昨夜、あなたが先に寝てしまうからですよ、、いくら僕でも、あなたと寝所を共にする勇気は持ち合わせていません」
「ふふっ、そんな冗談が言えるのなら、十分頭は働いているわね。朝食の後は、今日の方針についてでも話しましょうか」
ベスタは眼鏡を一度外して、眼鏡部を布で吹いてかけ直し、肩を竦めて。あれは仕方ありませんの意味ね、とコエリはどこか素直でない友人のアクションを読み取り、母のような笑顔を向けて、ーー自分もエプロンを手に取ろうとして、
「だから、あなたは料理は禁止だと、、!」
「だから、なんでよ? 美味しく作れたんだからいいじゃないの?」
慌てて飛び起きてきたベスタに、手を掴まれて、むすっとした顔でコエリも反論をします。けれど、ベスタも、ですから、と簡単には引き下がりません。
「そういう問題ではありません。いいですか、あなたの常識で食事を提供していたら、ミリアムの今後一生に関わる食事観が破壊されます!」
「じゃあ、ミリアムに決めてもらったらいいじゃない」
ミリアムは、丁度今、食材を持って外に出ようとしていて、すれ違い様に、言い争う二人に同時に目線を送られて、ほえ? と素っ頓狂な声を上げます。
そして、二人を代表して、コエリが事情を説明しーー、ミリアムは、ベスタへ落胆したような顔を向け、とろんとした目でベスタを見上げます。
「あの、、確かにお姉ちゃんの料理は美味しかったですけど、別に、ちょっとした晩餐っていうか、ご馳走っていうか、、これが日常、とか勘違いするほど、私も子供じゃないです」
「うっ、、」
「お姉ちゃんがこの家にいてくれる日って、そんな何日もないんですよね? だったら、せめて一緒にいる間くらいは、一緒にお料理したり、美味しいもの食べたりして、楽しく食事したいなって、、ダメでしょうか?」
ベスタを見上げるミリアムの瞳は微かに揺れていて、いじらしくベスタを見上げる愛らしさと、表情の寂しさ、声の物悲しさのトリプルパンチに、さしものベスタも、じりじりと腰を引かせます。
その、ミリアムの微妙な表情の変化と、瞳の奥に秘められた感情に、コエリは愉快な心持ちになって、クスクスと笑いながら、フリーズしてしまったベスタからあっさりとエプロンを取り返します。
「それじゃ、いいわね? 私はミリアムと朝食を作っているから、あなたは寝室を片付けておいてくれると嬉しいわ」
「、、仕方ありません」
珍しく、完全敗北を喫した形で、ベスタはとぼとぼと肩を落として、階段へ向かいーー
「やったあ! じゃあお姉ちゃん、今日は何作る!? 何か美味しいものとかある!?」
「そうね、それじゃあ、今日は王都でもちょっと珍しい、香草と卵を使ってーー」
急にテンションを跳ね上げ、目をキラキラさせてコエリの取り出す食材にはしゃぐ、ミリアムを見て。
つまりあれは、コエリの料理を楽しみたかったがための、方便ーー
「、、油断、しました。まさか、10才の女の子が」
寝起きで、頭が正常に働いていなかったとはいえーー、あれが、コエリと一瞬のアイコンタクトで以心伝心をした、料理を提供したい側とされたい側の共謀した演技だったと気付いて、ベスタは階段の途中で、頭を抱えて身体を手前の手すりへと寄せ、全体重を木製の手すりへ預けます。
そして、子供相手でも女性は女性なのだと、男たる存在が演技で勝てるような相手ではなかったのだ、ということを感じつつ、今さら引き返すことも、できなくて。
ベスタは、苦虫を噛み潰したような顔で、恨めしげに楽しくはしゃぐ二人を見やりつつ、足取りも重く、渋々二階へと上がっていくのでした。