ホロスコ星物語196
退室してしまった王子を追って廊下へ出ると、思いの外扉の近くで、相変わらず不機嫌そうな顔をしたジュノーが、腕組みなどしながら、人が出てくるのを待ち構えていて。小恵理は、反射的に身を引いてしまいます。なんだか、、ジュノーの雰囲気が、普通に怒っているだけとは違う気がして。
それに、人払いでもしたのか、廊下には使用人の一人もいなくて。人目がなくなったからか、それとも何か過去の余計なことでも思い出しちゃったのか、王子はまじで抑えの限界が来た暴君みたいに、さっきにも増して苛立ちMAXな雰囲気全開でいて。人の姿を見るや、すぐさまがっちりと腕を掴んで、行くぞ! と強引に腕を引っ張り、早足で歩き始めてしまいます。
「いった、、! 王子、どこへ行く気!?」
「一度執務室へ戻る。お前には聞くべきこと、言うべきこと、見せておくものと用事はいくらでもある!」
「ちょっと、もう、、!」
いや、人の腕をなんだと思ってるのか知らないけど、力任せに握られたら痛いんだっていうのに。
でも、抗議をしても止まってくれる気配はおろか、減速すらしてくれなくて。いくら王子だからといっても、無理やりがすぎます。といって、目に見えてイライラしてる王子を刺激したくもないし、力ずくで抵抗するというのは、さすがに気が引けるし。
成すがままの小恵理を引き連れて、ジュノーはそのまま一直線に廊下を突っ切り、やがて重厚な木製の扉の前まで来ると、一瞬だけ小恵理を振り返り、ここだ、と告げます。それから乱暴に扉を開け、拉致や誘拐犯同然、と思うくらいに無理やり腕を引き、強引に中へと入っていきます。
「、、気は済みました?」
っとと。勢いが付きすぎて、転ぶところだったけど。それだけはどうにか堪えて、バタン、と乱暴に扉を閉める王子を見つめます。
鍵までかけて振り返った王子は、なんかもう、いかにも俺は怒ってるんだぞ、と言わんばかりに、険しい顔のまま、無言で睨みつけてきて。お前は俺にこんな不快な思いをさせておいて、何も思わないのか、って責められてるみたいな感じ。
王子とは長い付き合いですから、睨まれるのにも怒られるのにも慣れてるし、それこそさっさと婚約解消してくれるのを待ってるくらいだから、今更それくらいで怖がったりはしないけど、、それだけ見ると、ほとんど察してちゃんの言動だし、言葉にもしない、我儘にも近い幼稚な王子の振るまいに、こっちからも不服が生まれて、
「、、いい加減、離してもらってもいいですか」
ついーー、言葉が口をついて飛び出します。まだ腕は、ガッチリと、締め上げるようにして王子に掴まれたままだったから。
ジュノーはゆっくりと、こちらが逃げる素振りがないかを注視しながら、手を離して、、何が悔しいのか、強く唇を噛みます。よっぽど手を放したくなかったのか、自分の思うような反応をしないのが気に入らなかったのかは、わからないけど、、その、掴まれていた腕は赤くなっていて、骨に響くように、ジンジンと痛みます。
さすがに、折れてはいないみたいだけど、、痺れるような痛みに、ちょっとだけ顔をしかめつつ。その腕を、王子から庇うようにそっと手を添えて、小恵理は王子から半歩距離を取ります。警戒というよりは、あなたが嫌です、の意味を込めて。
今までも、ジュノーの強引な姿や暴君な振る舞いは何度か見てきたけど、、今回は、格別に酷かったからね。こっちの言うことは一切聞かないし、女の子相手だっていうのに、行動も力ずくだし、もう本当に手の付けられない、暴君王子の振る舞いって感じ。
自分もそれなりに寛容な方だとは思っていたけど、言葉で注意するどころか、いきなり実力行使で、ここまで乱暴な扱いをされてしまえば、さすがに思うところがあります。モラハラって言葉知らないの、と思うし、手に力を込めすぎで、痛い痛いって言ってるのに全部無視して、ほとんど引きずるようにされたのは、さすがにイラつきました。
けれどジュノーは、あれで、気が済んだかだと? とますます怒りを溜めたように、低い、脅しつけるような声で言葉を返してきます。そんな暴君をやってて、まだまだ怒りの序の口というか、でもそれで言葉を切ってしまって、続く言葉はなし。怒りのぶちまけがありそうなのは、まだ仕方ないのでいいけど、黙られてしまうのはね、、またかまってちゃんみたいで、ちょっといい加減、うんざりしてきます。
元々、自分も忍耐がある方ってわけじゃないし。なにより、侯爵の件がようやく落ち着いたんだから、こっちはもうさっさとこの場は話をつけて、アルトナ捜索に戻りたいんだよね、、一週間以上も無駄に時間をロスしてるんだからさ。
だから、聞いてあげるからさっさと具体的な話をしてくれないかな、という、イラついてるくせに何も言わない王子に対して、だんだんイラつく自分という、困った構図は自覚して。でも、感情を抑えるのって、簡単なことではなくて。ひとまず深呼吸をする小恵理に、王子は、ため息だと、、と呻くと、いよいよ静かな怒りを発散するように、低い声で、小恵理、と呼び掛けてきます。
「小恵理、、お前、自分が何をしたのか、それをどう理解しているのかを言ってみろ」
「何をした、って、、」
やっと、まともに口を開いたと思ったら、、なにそれ? が、たぶん顔にも出ていたと思います。問いかけの内容は漠然としていて、今回事件に巻き込まれたことについてなのか、侯爵にノコノコ付いていったことについてなのか、それともここに来るまでのことを言っているのか、主旨がよくわかりません。ちゃんとそこまで話してくれない、子供じゃないんだからさ? とか思ってしまいます。口には出さないけど。
ジュノーの苛立ちっぷりから見ると、こっちからそれを問い返すのは、なんか本格的に爆弾でも炸裂させそうで嫌なんだけど。でも、、そう、どうせ王子が意味わかんないのなんていつものことだから。いっそそれで婚約破棄でもしてくれれば御の字だし。ならもういいわ、と小恵理もいっそ、開き直ってしまって、一つ、本当に露骨にため息をついて、何をしたか、ね、と遠慮を捨てて応じます。
「今回の事件についてですか? 一応、面倒事には巻き込まれましたけど、無事に解決はしたし、人間と魔族、共同の町作りに貢献くらいはしたんじゃないですか? 私はただ犯罪の摘発をしただけですから!」
「そこじゃない! お前、俺に帰ってきたことを教えもせず、婚約者にして王子たる俺に断りもなく、無断で王都を出奔していっただろうが! 聖女にして王子の婚約者、つまりは次期王妃でもあるという身の上でありながらなっ!」
「っ!」
いった、、! 王子は、怒鳴りながら急に人の胸ぐらなんか掴んできて、正面から目を合わせながら、そんな風に人を責め立ててきます。それをお前はわかっているのか、と。
それは確かに、今は、そうかもしれないけど。でもどうしてそんなことをしたかと言えば、時間がなかったから、、それに、報告だって、目覚めた直後から、あんなーーあんな近くにいたくせに。王子が自分で、いつまでも気付かなかっただけなのに。
急いだのは、魔王に連れ去られたアルトナの捜索に、国からまだ戦場が遠い段階での、魔王退治、、早く対応しなければ、その戦場では今だって、どんどん人が、魔族も、死んでいくから。アルトナだって、生きて帰ってこられるのか、、魔王や魔族が、本当に生かして帰す気なのかも、わからないのに。それを、王子はわかってないだけで。
自分は、、こんなに遅れて、今更ようやくブルフザリアに辿り着いておいて、、! 事件の解決こそ、王子の力ではあるけれど。なんのために人がこんなに急いで出てきたと思ってるのよ、という無性な苛立ちが、衝動的に王子への反論を口にさせかけてーー、かろうじてギリギリ、ぐっと握り拳を固めることで、小恵理はその衝動を押し止めます。
そう、別にここには、、喧嘩をしに来たわけじゃない。王子の侯爵への怒りをちょっとでも抑えるため、寛大な措置を講じさせるため、あの若きベツレヘム侯爵が再び公務に戻れるよう、王子を宥めるためにここに来ているのに、、ここで自分が爆発したら、何のために王子を追ってきたのか、わかりません。だから、どんなに不本意でも、一度はぐっと反論を飲み込んで、
「大体、ずっと前からいつもいつも、お前は勝手が過ぎるんだ!」
「っ王子、、!」
でも、王子は、いよいよ我慢の限界が来たと、箍が外れ、もう自分でも止められないとばかりに、怒りに、激情に身を震わせながら、ここぞとばかりに力任せに人の上体を揺さぶってきて、視界が大きく揺らされます。胸元にぶつかる拳で、小突かれたような痛みがじんわりと広がって、首も絞まって、息苦しいし。こっちは、王子が相手だからって遠慮して、怪我なんかさせないよう、変に力を込めたりも、しないように、しているのに、、!
「人の気も知らず、勝手にいなくなって勝手に帰ってきて、また勝手にいなくなって、、っ!! お前のその勝手が、いったい何人に迷惑をかけてきていると思う! 俺を含め、騎士団、宰相、ディセンダント公、父上にもだ! どれだけ人を振り回していると思っている!!」
「王子、、やめて、、!」
人の気もっていうのが、何を差すのかはわからないけれど、、絞められ過ぎて、揺らされすぎて首筋が痛くて、小恵理はその腕を、でもあくまでそっと触れるようにして、囁くような声でジュノーへ抗議します。迷惑をかけるっていうなら、、それだって、言い分はきちんとあるのに。今の王子は、自分の言いたいことをぶちまけているだけで、聞く耳を、持っていない。
ブルフザリアは、平和だけど、、種族としての魔族との対立は本物で、事態は、王子の思うよりもっと深刻で。決して、対岸の火事なんかじゃない、、ゾディアックだって、決して平穏ではないのに。現に魔王はハウメアの反乱に、祈りの間の拠点作り、それに際してアルクトゥルスの殺害と、これまでだって自分を狙って様々な事件を起こしていて。
だったらーー、、魔王が望むのが、自分だというのなら。まずは、その元凶である自分がさっさと国を出てしまって、魔王を退治、ないし説得をするーーそれが最善と思って、一番迷惑をかけない方法と思って、王都を離れ、国を出る決断までしたのに。
「その極めつけが今回だ! 無事の報と失踪の報が同時に来るなど、ふざけた報告が来たと思ったら、その後はベスタと、レグルスまで同行していただと!? ベスタ一人を連れるのも許しがたいが、もう一人がよりによってレグルスか! 侯爵の手前、魔族全てが悪ではないとは言ったものの、全体で見れば、俺たちは魔族とは戦争中なんだぞ!!」
王子は、自分の迂闊さを、油断を、考えのなさを見直せ、と。これでもかというくらい人のことを強く揺さぶってきて、大声で怒鳴り付けてきます。お前は自分の身をわかっているのか、と再度、強く、訴えて。
そんなことは、わかってるけど、、それが最善の選択だったことも、また事実で。一番身近にいたくせに、ベスタだって学院長だって勿論家族だって、他の誰もが帰ってきてすぐに気付いていたのに、自分では気付きもしなかった、王子、、そんな自分を棚にあげてるだけの上、そんな、こっちの考えなんて何もわかってない、聞いてもくれない、一方的な言い分に、思わず、奥歯を噛んで。
けれど、、口調だけは努めて穏やかに、あくまでも侯爵のため、刺激をしないようという意識だけは、思い起こして。再度、荒く息をつく王子へと口を開きます。言っても何の意味もないことなんだろうなっていうのは、もうわかっていたけれど。
「ーー、それを言ったら、、王子は許可しましたか? 私が国を出ることを」
そう、王子に声を発して、、そこで初めて、自分の声が震えてることを、自覚してしまって。一度、そこで声を切ります。それから、自然と目線は下を向いてしまって、少し俯きながら、小さく息をついて、呼吸と鼓動を整えます。
声が震えてるのは、緊張、、それとも、悲しみ? 自分でもよくわからないけど、、考えてみたら、長年王子と接してきて、こんな風に王子に面と向かって意見するのは、初めてだっけ。
面食らったような王子の表情に、でも少しだけ、愉快な気持ちが湧いてきます。普段からずっと、こんな風に自分に意見されたことなんてなかったんだろうな、ってね。正す人がいないんじゃ、こんな暴君にもなるんだろうな、と思って。
それから、まだ静かに、かすかに震える自分を自覚して。これは、恐怖じゃなく、怒り、、ただの苛立ちかな? なんだか、いろんな感情が渦巻いて、荒ぶって、自分でも理由はわからないけれど、その心の奥に、間違いなく王子に対して、震える激しい感情を感じて。でもそれを少しでも抑えようと、懸命に自分に言い聞かせながら、小恵理は王子をそっと見つめます。
でも、、でも。でも、、! なんでこれに、こんなにこだわりたくなるのかは、わからないけれどーー王子は自分を、ずっと、ずっと、コエリだと、勘違いしていたんでしょ、と。城にいた間だって、いつまでも入れ替わってるのに気付きもしなかった、王子、、そんなことすらもわからない、形だけの婚約者なんて、どうせいてもいなくても、変わらないんだから。
だったら、追いかけてくる必要なんて、なかった。放っておいてくれた方が、、何倍もましだった、、!
王子は、その、震える言葉に、意外な一言を聞いたように、目を開いたまま、少しだけ腕の力を緩めて。
「、、なんだと? 国を出るだと? お前、」
「王子は許可しました? 私が魔王を討伐すると言って、国がまだ安全なうちに、被害がこれ以上拡大しないうちに、迷惑も害も最小のうちに、魔王がこれ以上手を出してこないうちに、まだアルトナに追い付けるうちに、ゾディアックを出ることを、、!」
「ーーー」
小恵理は、相変わらず胸ぐらを掴んで放さない王子の腕を、それでもそっと掴みながら、涙と激情に揺れる瞳で、王子を正面から見つめ返します。
確かに、黙って出ていったのは悪かったと思っているけれど、、拐われたアルトナは、今も無事が知れない状態で。救出が遅れれば、それだけ生命にも危険が迫るっていうのに。今だって、今だって! 本当はどれだけ急いでるのか、焦っているのかだって、王子には全然伝わらない。
戦争だって、大元の魔王を倒すなり説得するなりすれば、、それは確かに、魔族との遺恨から反魔族派が生まれたように、小競り合いみたいなものまでは、すぐには収まらないかもしれないけど、、大規模な戦争状態は、終わらせることができるはずで。ただ、ゾディアックでは、まだ事件しか起きていなかったから、他人事だと思っているから、王子は安穏としているだけ。前線では今も激闘が続いていることは、変わらない。
それには、1日だって無駄にしたくないし、実際ここに何日も留め置かれたのだって、魔王が会いに来なかった、単に侯爵の嘘に騙されてたっていう誤算があっただけで、ずっと、魔王と決着が付けられると思って。もし目の前に魔王が出てくれば、すぐに全部終わらせてあげるつもりで、1日も早い争いの終わりのために、アルトナの無事のために、留まっていただけ、なのに、、!
もうーー、いい、、! 小恵理は、一瞬口をつぐんだジュノーに、最後通牒を叩きつけるつもりで、強引にその腕を振り払います。こっちはネイタルの覚醒者なんだから、本来であれば王子の力なんか相手にもなりません。
「小恵理!」
「王子は、婚約者には隣にいてほしいのかもしれません。国のことにもっと心を砕いてほしいのかもしれません。でも私は、王妃候補である以上に、まだ未完成でも、未熟でも、聖女です。魔王討伐のために、争いを終わらせるために、戦わないといけないんです。どうせ王子にはわからないんでしょうけどね、そんな責任や重みなんて、、っ!!」
その、最後に発した言葉に、自分自身もどこか重い衝撃を受けて。最後には、声が掠れて、王子の顔も、涙に霞んで、ぼやけて見えなくなってしまったけれど。
頬を伝う水滴を拭いながら、小恵理はジュノーに背を向け、扉の鍵を一瞬で解錠して、扉を押し開けます。
「責任、、!? 何故お前一人が、、待て! おい、小恵理! 話は終わっていない!」
「もう追ってこないで!!」
追いかけて、腕を掴んできたジュノーの手も振り払って、一気に加速し、ジュノーには絶対に追い付けない速度で廊下を駆け抜け、小恵理はそのまま窓から外へと飛び出します。
もう、これで国からの追放とかもされるかもしれないけど、、それももういい。今更です。アルトナはどのみち早く見つけないといけないし、魔王を倒してしまえば、現代に帰れるかもしれないし、なんだったら、その後は魔王の居城をそのまま受け継いでしまって、勝手に住ませてもらう手だってあります。もし討伐する必要がないのなら、いっそカイロンを説得して、城にお世話になりながら、お互い共存して平和になる道を目指したっていいし。
もう、王子のところになんて帰らないーーまずは、何日も予定の遅れてしまった侯爵邸を飛び出して、、そういえば、ベスタはどうしてるんだろう。ずっと姿を見せないで、ここまで来てしまったけど。リーガルの山地で、ベスタと合流できるかな、、王子に居場所くらい聞いておくべきだったかもしれない、そう後悔するも、それももう後の祭りで。
ーーと、そんな思考を巡らせながら、小恵理は、屋敷の窓を飛び出した先、庭に着地しようとして、
視界に映るのはーー女の人の、茶色い、髪!?
「って、ちょっ、、うっそ! ひゃああっ!」
ついうっかり、涙で前が見えないまま、窓から飛び出してしまったせいで、そこに、人がいるなんて、全然思わなくて。
どしゃあっ、と、誰と認識する間もなく、背面を向けていた白と黒い服の何かに突っ込んでしまって、小恵理は勢いそのまま、その何かと一緒に柔らかい土の地面へと投げ出されます。
「うっわっ、、ごめんなさい、本当ごめんなさいっ! 大丈夫!? 生きてるっ!?」
ネイタルまで使って猛烈に加速してた上、今の柔らかい、軽めの感触から、相手が女性であることは明白です。かなりぶっ飛んだ勢いで突っ込んじゃったし、何メートル一緒に吹っ飛んだのか、怖くて計測もできません。壁に突っ込まなかった辺りは、広い屋敷で良かった、、じゃない、い、生きてる!? 生きてる!? と大慌てで小恵理はその、奥で倒れた人物ーー頭にヘッドレストを付けた、襟元とエプロンに、白と黒のフリルの付いた衣装を着た子ーーメイドさんを、揺さぶり起こします。
彼女は、完全に目を回していましたが、小柄な女性で、部屋で数日お世話になってきたメイドさんと同じ、綺麗に結われたポニテの茶髪が印象的な女の子で、、って。
「あれ、あなた、、」
「う、うーん、、いったい何が、、」
この子は、あの監禁部屋でずっとお世話をしてくれていた、あの有能で隠密臭のするメイドさんです。屋敷が王子の支配下に入ってから、姿を見かけないとは思ってたけど、こんなところで何をしていたんだろう。ふらつく頭を押さえながらも、すぐに目を覚まし、上体だけでも起こして周囲の状況を確認している辺り、やはり普通のメイドさんではありません。てゆーか頑丈すぎでしょ。もはやサイボーグです。
って、それどころじゃないんだった。小恵理は、ひとまずその子を助け起こし、同時に、今飛び出してきた廊下側から、小恵理ー、と名前を呼ぶ声と、人の接近してくる気配を感じて、思わず舌打ちをします。
「ったく、付いてこないでって言ったのに、、! ごめんあなた、メイドさんの格好してるけど隠密でしょ? この辺でどこか隠れられるところない!?」
「あ、、それでしたら、一応ここから、屋根裏に逃げ込めますが、、」
でも、とメイドさんは頭上を見上げて、困った顔を浮かべます。目線を追ってみると、隠密の隠れ家らしく、目立たないよう、屋根のすぐ下辺りに草木でうまく隠匿された扉は見つけられたものの、そこは三階より更に高くに位置していて、隠密ならぬ普通の人間にはとても入り込めない高さです。
でも、それって普通なら、だからね。小恵理は、大丈夫よ、とそんな隠密なメイドさんへ、力強く頷いてみせます。
「あのくらいの高さなら私は余裕で届くよ。入り方は、普通に押せばいいの?」
「それでしたら、、侯爵様のご恩もありますから、特例としてご案内いたします」
付いてきてください、とメイドさんは、身軽に近場に生えた樹を伝って、屋根裏まで一気に跳躍していきます。
それを小恵理は、普通に一足跳びで、一瞬で屋根裏まで跳躍し、
「っつ、、!」
「はい、っと、本当にごめんね、大丈夫?」
最後、屋根裏に到達する寸前に、やっぱり背筋でも痛めたのか、手を滑らせたメイドさんに、軽く軒先を掴んで空中で自分を吊り下げる形で自分の身体を支えつつ、メイドさんの腕を掴んで、屋根裏の扉らしきところまで引き上げてあげます。
「あ、ありが、とうございます、、」
「お礼はいいから、早く開けて! 王子が来ちゃう!」
「は、はい」
体格は自分も小柄だから、さすがに驚くよね、とは思うけど。覚醒者なら、実際こんなのは余裕でできるからさ。王子相手に迂闊に力を込めたりできないのは、そういう理由があるからで。
ーーカチッ、と。メイドさんは、小恵理の発揮している膂力に驚きながら、屋根裏の側面にある、小さな取っ手に何かの金属を噛ませて、仕掛けを解除しながら引き開けます。
つまり、この金属を噛ませないとそもそも解錠しないし、軒先で、しかも樹と屋根の縁に隠れる形で、仮に昼に入り込んでも、そうは人目につかない工夫がされているってわけ。さすが隠密の隠れ家らしい構造って感じです。
その造りと仕掛けの精妙さに素直に感心しつつ、メイドさんが中に入ったのを確認して、よっと、とメイドさんに続いて、身体を振った勢いだけでその奥へと身体を滑り込ませーーその際、小恵理は、ようやくここまで追い付いてきた、窓枠を掴んで身を乗り出し、外へと素早く目線を走らせる、ジュノーの姿を見つけて。
小恵理ーっ! と繰り返し声を張り上げる、思いもよらず必死な表情に、正直、申し訳なさも甦ってくるけれど、、小恵理はそのまま、未練を断ち切るように小部屋の扉を閉め、その姿と音声を視界から消し去ります。
本音で言えば、あんな強引で暴力的な王子のことなんて、記憶からだって消し去りたい、、そんな、わけもわからず生まれてくるやるせなさに唇を噛み、それから、やっぱり最後まで、何もわかってもらえなかった、、話を聞いてももらえなかった悔しさに、身体を震わせて。